橋本治著『父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』(朝日新書、二〇一九年)は没後刊行された新書である。
《明治維新から太平洋戦争終結まで七十七年である。「まだ近代ではない」その期間を「もう近代だ」と思い込んでいた結果、一九四五年以後の日本の近代にはいろいろな歪みや思い違いが多い》(「誰も経験したことがない世界」/同書)
今年は太平洋戦争終結から七十七年である。明治維新から敗戦までと「戦後」は同じ期間になった——「未来」について考える上ではそういう時間の感覚もあったほうがいい。
この七十七年の社会のあり方を考えると軍事力から経済力に転換した流れがある。そして健康——長寿の国になった。高度経済成長は、公害問題をはじめ、国民の健康を犠牲に達成した一面がある。
橋本治は『たとえ世界が終わっても』でバブル崩壊以降「『食』しか豊かにならなかった日本」とも指摘している。
健康と食——あと何だろう。治安のよさもあるか。交通網の整備にしても世界有数の国である。
地理環境の要因もあるが、水にも恵まれている。うまいものが食えて、ほどほどに健康で安全かつ便利に暮らせたら、それでいいんじゃないかというのが(漠然とした)国民の総意なのかもしれない。
医療と食の充実した長寿国になった日本。この三十年の経済の低迷を考えると国力の配分がちょっとおかしい気がする。もっとも誰にとっても「正しい配分」なんてものはこの世に存在しない。
『知性の顛覆』(朝日新書)の第四章は「知の中央集権」にこんな一節がある。
《近代の日本人は、長い間「西洋的=進んでいてオシャレ」と考えて、西洋化の方向に突き進んで来た。西洋化する上で邪魔になるのは、長い時間をかけて積み上げられてしまった「日本的なもの」で、近代化する日本人は、それを古い土俗や因習と考えて切り捨て脱却することをもっぱらに考えた》
軍事にしても経済にしても文化にしても、近代の日本は「西洋的なもの」を追いかけてきた。「その先の日本」 はどんな社会を目指すのか。すくなくとも「西洋的なもの」ではない。「東京的なもの」という言葉が浮んだが、話がややこしくなりそうなのでちょっと休む。