2022/05/18

社会建設 その一

 橋本治著『'89』の単行本(マドラ出版、一九九〇年)と文庫(河出文庫、一九九四年)の古書価が上がっている。河出文庫は上下巻に分かれているのだが、揃いで買うと四千円以上だ。

 すこし前に橋本治著『たとえ世界が終わっても』(集英社新書、二〇一七年)を読み返した。「まえがき」にこんな一節があった。

《人は、若いと「未来」を考えます。「この先どう生きていったらいいのかがよく分からない」という状況にあったら、どうしたって「未来」を考えます。「未来」を考える限り、その人は若い。「未来」を考えなくなった、その人はもう若くない》

 もちろん「未来」を考えることだけが、若さではない。また「未来」を考えるためには「過去」も考える必要があると——。

《過去とは、未来を考えるためのデータの山だからです》

 わたしは「過去」をふりかえってばかりいる。もう若くない。ただ、「過去」の中に「今」や「未来」を考えるヒントになるようなものは探したい。

《社会というのは、毎日ちょっとずつ動いてる。ちょっとずつ新しくなれば、その分だけ「古くなった」ってところが生まれて、それを変化に応じて毎日調整していくのが必要だってこと。そういう方向を考えながら生きていけば、自分の生きていることが「社会建設」につながるでしょ。「自分が生きて働いてるのは、社会を支える行為だ」って。そうすりゃ「どう生きてったらいいんだろう」とか、「自分の存在に意味なんかあるんだろうか」なんてことを考えなくてもいいでしょ》(「バブルを経て『社会』が消えた」/同書)

 戦後——昭和の日本がまだ貧しかったころは、家を建てることも道路を工事することも社会の復興につながった。あらゆる仕事がそのまま社会の向上につながっていると実感できた。
 しかしすでに豊かになった社会に生まれ育った人たちは「自分たちが汗水垂らして社会を作ろうなんて意識はなくなる」。社会は自分のためにある。社会のために自分が犠牲になることを嫌がる。

 給料を上げろといっても、会社を作って社員にたくさん給料をあげようと考える人は稀である。わたしも考えないし、やろうとおもわない。社会が貧しくなっても、自分が食っていけるうちは関係ない。

《硬直した過去の思考習慣の中に含まれていた、「真面目」という有効成分が、バカに覆い尽くされて埋もれちゃったのよ。「ダサいんだから問題にしなくてもいい」という形でね。「社会建設」も、そうやって埋められちゃったんだ》

 そうした変化は「八〇年代」に起こった——というのが橋本治の持論である。

《復興をずっとやってきた人たちはね、「生活を守る」というところを基盤にしてたのよ。下手に動いて守るべきものが壊れたら困ると思ってたから、慎重だったのよ》

 若い人には「守るべきもの」がない。消費で欲望を充足させ、親は子どもに「『先の豊かさ』が保証された道」を歩ませようとする。子どもはいわれるままにその道を目指す。しかしその道の先もずっと競争は続く。バブル崩壊後、貧しくなる社会で縮小するパイの奪い合いになった。結果、社会はどんどん痩せ細っていった。

 この先の「未来」に必要なのは「社会建設」や「復興」という意識なのかもしれない。

(……続く)