水曜日、夕方五時ごろ、高円寺駅の総武線のホームから夕焼けと富士山を見る。西荻窪、荻窪の古本屋をまわりながら散歩する。荻窪駅の近くの善福寺川の遊歩道もすこし歩いた。
渡辺京二、津田塾大学三砂ちづるゼミ著『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(文春文庫)を再読——。最後の「無名に埋没せよ」の言葉がいい。
《ですから、人間というのは、簡単に言ったらもう学問なんかしなくたっていいわけなんです。芸術なんてわからなくたっていいんです。自分が生まれてきて楽しいことを十分に感じられる人間になること。(中略)毎年流れゆく四季、それから自分を取りまいている町の佇まい、あるいは空の色、あるいは四季折々に咲く花、そういう中で生きているという喜びを感じるということですね》
行きつけの店、町を流れる川——自分が住んでいる町に喜びをおぼえる。そういうことが人にとって一番大事なのだと渡辺さんは語っている。
《慎ましく、具体的に自分の家族を大切にしたり、あるいは自分の隣人を大切にしたり、その時々には喧嘩もするでしょうけど、そういう自分の狭い周りの中で正直に生きてきた人間が、世界史上の災いを引き起こしたためしは一度もありません。
ですから、社会のために役立とうなんて、そんなことはまず考えないことです》
何十年も本に埋もれるような生活をしてきて、自分の住んでいる町やその隣町のことを知らずに生きてきたのだなと……最近そういうことをよくおもう。これまで自分の関心をもうすこし外に向けてみたくなった。
福原麟太郎の「この世に生きること」(『野方閑居の記』沖積舎)や尾崎一雄の「生きる」(『新編 閑な老人』中公文庫)も同じようなことをいっているようにもおもえる。
定年まであと三年という時期の福原麟太郎はこんなことを書いている。
《私は自然に関して昔から無関心で、良い景色を見るということに興味がなく、雪月花の趣にも、深い感興は湧かなかった。鳥の名や花の名も、知っている数がすくなく、知ろうともしなかった。然るに、五十歳前後から、何となく、季節に感じるというところがあって、われながら、不思議だと思った》
《人間は死ぬものだ。死の足音はもう聞えて来ているのだと思うと、あとは、しみじみと暮らしたい、わが生命を心ゆくまで楽しむ日に恵まれたいと願う》
尾崎一雄の「生きる」にこんな一節がある。
《巨大な空間と時間の面に、一瞬浮んだアワの一粒に過ぎない私だが、私にとってはこの世こそがかけ換えのない時空である。いつの世でも、いろんなさまたげがあってそうはいかないけれど、すべての生きものは、生まれたからには精いっぱい充実した時をかさね、やがて定命がきて自然と朽ちるようにこの世を去りたいものだ》
《巨大な時間の中の、たった何十年というわずかなくぎりのうちに、偶然在ることを共にした生きもの、植物、石——何でもいいが、すべてそれらのものとの交わりは、それがいつ断たれるかわからぬだけに、切なるものがある》
尾崎一雄がこの随筆を書いたのは六十三歳。でも三十代前半から似たようなことをくりかえし書いている。
わたしは今五十三歳で……と書きかけた途端、いろいろな言葉があふれてきて収拾がつかなくなったのでちょっと散歩してくる。