福原麟太郎著『野方閑居の記』(沖積舎)には栞がついていて、庄野潤三、阪田寛夫、外山滋比古が寄稿している。阪田寛夫の「福原さんの本」に「『ラム伝』以外は、西武電車新宿線野方駅辺りの書店や古本屋さんで買ったものだ」という一文があった。
《私は医師の勧めに従って散歩を始めた。最初は西武電車の一駅分を歩いていたが、引返し地点の都立家政駅前の書店で、その頃出たばかりの『福原麟太郎随筆全集』第三巻を買った》
《実は私が会社の転勤で家族連れで東京へ来て最初に住んだのが野方二丁目の、当時の米軍刑務所脇の家だった》
阪田寛夫は西武新宿線の鷺ノ宮駅あたりに住んでいた。新宿方面に歩いて一駅隣が都立家政駅、さらに一駅隣が野方駅である(鷺ノ宮駅〜野方駅は約一・五キロ)。
米軍刑務所は今の平和の森公園——西武新宿線の野方駅と沼袋駅の間(沼袋寄り)にあった。野方は縦に長い町で南のほうはJR中央線の中野駅や高円寺駅も近い。
「福原さんの本」には天野書店のシールが貼られた本の話も出てくる。
巻末の「『野方閑居の記』復刊にあたって」には「野方駅すぐ近くに古書の天野書店がある。福原先生は生前この店の先代とも親しかった」とある。
今、天野書店は沼袋駅にある。野方の福原麟太郎が暮らしていた家とそんなに離れていない。
『野方閑居の記』の「この世に生きること」に「歳をとるとともに考えや嗜好が変ってゆくのは、どうにも仕方がない」とある。
《だから私の話は、結局、一八九四年生れの凡庸な少年が、どういう手続で、一九五二年にどういう考えを抱くようになったかという、ある時代の個人の話になってしまうことになる》
七十年前の随筆。福原麟太郎五十八歳。
学生時代、福原麟太郎は文学を崇拝していた。芝居に熱中した。学問のことしか頭になった時期もあった。
《そのうちに、一番大切なものは、よく生きることである、文学も学問も生きることの一部分に過ぎないということを考えるようになってくるのだが、それは、いつごろであったであろうか》
——「よく生きること」とは?