先週の水曜日、午後二時すぎJR総武線の高円寺駅のホーム(阿佐ケ谷駅寄りの端)から南西の方角に富士山がよく見えた。晴れた日でも雲が少しでもあると見えないことも多い。電車に乗る日、時間、天候その他を考えると高円寺駅のホームから富士山を見るのは年に数日あるかどうか。
福原麟太郎著『野方閑居の記』(沖積舎)に「四十歳の歌」という随筆がある。『福原麟太郎随筆選』(研究社出版、一九八一年)にも入っている。初出は「中外商業新報」(一九三四年九月)。福原麟太郎は一八九四年十月生まれだから、四十歳のすこし手前に書いた文章である。
《四十歳の歌は秋の歌である。蕭条として心が澄んでくる、あきらめのすがすがしさを身にしみて覚える。自分にどれだけの事ができるかという見通しがすっかりつく。どんなことは出来ないか、ということも解る》
さらに「おのれの職分」の見極めがつくという。わたしは四十歳のころ、まだまだ若いつもりでいた。四十代半ばあたりから「どんなことは出来ないか」について、よく考えるようになった。しかし「あきらめのすがすがしさ」という心境はまだわからない。そのうちわかるのだろうか。
《自分の力などというものは四十歳くらいまでで行きどまりで、あとは、その時までに踏み込んでいた陥し穴の中で、それなりに朽ちていくだけのものである》
明治生まれの四十歳と今の人の感覚はちがうかもしれない。福原麟太郎は墓のことまで考えている。人生五十年といわれた時代はそういうものだったのか。
《みたまえ、この人生という野原で、あの男は文士になっている。あの男の少年時代は日本の文豪を想像させる俊才であったが、結局雑文の方を沢山書く口すぎの為の文筆業の闘士にしかならなかった。それもよしよし、それが彼のひいた籤だったのだ》
「四十歳の歌」の「行きどまり」「陥し穴」「ひいた籤」という言葉についてはもうすこし掘り下げて考えてみたいが、頭がまわらない。昭和九年——八十八年前に書かれた随筆だが、今の中年のわたしが読んでも身にしみる。
福原麟太郎も昔の偉人と自分を比べて、若いころからやり直したいといったことを書いている。あと朝も弱かったようだ。