2022/06/07

乗り継ぎ旅 その二

 土曜日、朝九時ごろ、高円寺を出て、あれこれ電車を乗り継いで名鉄の東岡崎に着いたのは十三時四十五分。モダン道路から伝馬通りを歩いていると朝鮮通信使のことを紹介する標石(けっこう新しい)があった。朝鮮通信使関連の本、図録を集めているが、ちゃんと読み込めていない。御馳走屋敷(朝鮮通信使が泊った)の標石もあった。

 岡崎公園の手前あたりで万歩計の電池が切れる。あとすこしで一万歩くらいだった。公園で電池を交換する。

 岡崎公園駅から名鉄で名古屋に出た。名鉄から近鉄に乗り換え途中にある北野エース(食料品店)が、成城石井になっていた。インターネット上には北野エースは二〇二一年八月十五日に閉店とある。昨年は一度も三重に帰ってなかった。

 三重に行って名古屋から東京に帰るときは、かならず北野エースで買物していたのだが……。

 夕方、名古屋から近鉄で鈴鹿へ。ここまでおにぎり一個だけ。空腹でふらふら。桑名に寄るか、それとも鈴鹿の平田町まで行って鈴鹿ハンターでうどんを食うか。迷ったあげく、ハンターのうどんに決めた。ハンターの二階で夏用の靴下も買う。

 ハンターの近所のスーパーのぎゅーとらが「ぎゅーとら ラブリー平田店」に名前が変わっていた。酒とあられを買う。

 わたしが生まれ育った長屋は平田町にあった。今、母は別の町に住んでいる。生家から一番近い宿場町は東海道の庄野宿だったが、今は伊勢街道の神戸(かんべ)宿のほうが近い。
 十九歳まで鈴鹿にいたが、町の歴史に何の関心もなかった。

 愛知県の岡崎によく泊っていた色川武大は三重にも何度か来ている。

《私は面倒臭がりやのわりに方々を旅して歩いている。昔、ばくち場を伝わって歩いたからで、乞食旅だし、そのぶん巣造りをおろそかにしているが、だからこの近鉄鳥羽線もよく利用していた。公営の賭場だけをあげても沿線に、四日市のはずれの霞ケ浦競輪場、津競艇、松阪競輪場、がある》(「暴飲暴食」/『引越貧乏』新潮文庫)

 わたしは四日市、松阪の競輪場は行ったことがない。色川武大は近鉄鳥羽線と書いているが、霞ヶ浦駅(四日市市)は近鉄名古屋線(名古屋〜伊勢中川駅)、松阪駅(松阪市)は近鉄山田線(伊勢中川駅から宇治山田駅)。近鉄鳥羽線は宇治山田駅(伊勢市)から鳥羽駅(鳥羽市)までの区間である。三重県民でも近鉄の路線名を知らない人は多いとおもう。
 さらに鳥羽駅から賢島駅まで近鉄志摩線が走っている。わたしの母の郷里は志摩線の鵜方駅からバスで数十分のところにある浜島町。「暴飲暴食」で色川武大といっしょに三重を旅する逐琢(山際素男)は大王町の船越の出身である。二〇〇四年十月に浜島町も大王町も志摩市になった。

《私たちは車をチャーターして、逐琢の生まれである奥志摩に向かった》

 初老の運転手は「昔は船でしか行けんかった一帯ですがね」といった。

《船越は、入江のかげに人々が集まってひっそりしゃがんでいるような感じの村で、防波堤に波がくだけ散っており、清涼飲料水のポスターが濡れてはりついている》

 わたしは大王町には行ったことがない。船に乗ったとき、大王町の灯台を見たような気がするが、その記憶もかなりあやふやだ。