三十代の試行錯誤をふりかえるつもりが、書いているうちに忘れていたことをおもいだしたり、考えが変わったりする。
マイク・ルピカのスポーツコラムをはじめて読んだとき、その文章の何がどう「自分の声」なのかわからなかった。
ルピカは野球、テニス、バスケットボール、陸上、ボクシンングなど、あらゆるジャンルのスポーツを書いている。おそらくひとつひとつのスポーツのジャンルの知識はその種目の「専門家」には太刀打ちできないはずだ。だとすれば、ルピカは何で「専門家」に対抗しているのか。
ルピカは、ある試合、ある選手の記憶を書き留める。敗者に寄り添ったコラムを書く。しかも「一時間に千語」というスピードで。
三十代のわたしが『スタジアムは君を忘れない』に感激したのは、スポーツという枠はあるにせよ、それ以外はかなり自由に書いているとおもえたからだ。
《ロイ・キャンパネラは口癖のように言ったものだ。野球をやるなら心にたっぷり少年の部分を持っていなければならない、と。スポーツライティングもまったく同じ。いま目にしているものを好きになること。もし好きになれなかったら、どこにでもいるタイムカードを押すだけのクズと変わらない》(『スタジアムは君を忘れない』まえがき)
好きになること――ルピカのライティングの根底にはそういう気持がある。それがそのまま彼の「声」になっている。
好きなことをする。当然、そのために何かを捨てたり、我慢したりすることもある。好きだからといって何もかもできるわけではない。
いつの間にか、好きなことにブレーキがかかるようになっていた。せっかく好奇心が芽生えても、今やっている仕事にすぐ結びつかないようなことは後まわしにする。
しめきりという制約の中、自分のできること、やりやすいことしかしなくなる。
少年時代の自分はどうだったか。興味をもったことにすぐ飛びつき、できるかどうかわからなくても、やってみようとする。失敗をおそれず、簡単にあきらめない。
いつから自分はそういうことができなくなったのか。
(……まだ続く)