本田圭佑がイタリア・セリエAのACミランの入団会見のさい、「心の中のリトル・ホンダが選んだ」と答えた。
いくつかのスポーツ新聞の補足には、オランダのFWファンペルシーがマンチェスターUへの移籍時に「自分の心の中にいるリトル・ボーイに聞くと、彼は“ユナイテッド”と叫んだ」という発言が元ネタとあった。
何か大きな決断をするとき、自分の心の中の「子ども」に相談する。子どもは好きなこと、やりたいことを選ぶ(そうじゃない子どももいるとおもうが)。
わたしの場合、自分の内なる「子ども」の声は「やめたい」「休みたい」を連呼しかねないので、重要な決断をまかせるのは心配だ。
かといって、「子ども」の部分を抑えすぎると、その声はだんだん聞こえなくなる。
わたしは十九歳でフリーライターになった。
成人式には行かず、高円寺の飲み屋でひとりですごした。
数年後、大学を中退した。
大学でやめて学生ライターじゃなくなったら、仕事が減った。
その年、バブルがはじけた。住んでいたアパートも取り壊しになった。
古本を買うだけでなく、売る生活がはじまった。
貧乏生活が続くうちに、自分の中の「子ども」の部分が磨り減り、削られていくような気がした。
自分がおもしろい人だなとおもった大人は、みんな「子ども」の部分を大事にしていたとおもう。
損得抜きで「いやなものはいやだ」といえる人たちだった。
親戚にひとりくらいいる変なおっさん——大人らしくない大人の存在に救われる子どもだっている。
無理や我慢をすることで身につく力もあれば失う力もある。
成人の日から二十数年経った今おもうのは、別に急いで大人になる必要はないということだ。誰かにとって「扱いやすい」人間になることが大人になることではない。
自分の中の「子ども」の声を失ったら、つまらない大人になる。