2020/05/21

二十八年前

 小雨。やや肌寒い。神保町。東京堂書店、博多うどん、神田伯剌西爾。
 行きと帰りの電車で竹中労著『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫)を再読する。

《一九五八年上京して、フリーのもの書きになってから、およそ四半世紀の日々を、追い立てられるように、私は生きてきた。過去に一刻の安息もなく、未来にむかって一文の貯えもなく、五十の坂を越えてしまったのである》

 単行本は一九八一年七月刊。まえがきを書いたのは同年二月——竹中労、五十歳だった。
 わたしは名古屋の予備校時代に古本屋で単行本を買った。

『決定版』では晩年『ダカーポ』に連載していた「実践ルポライター入門」(未完)も収録。この連載で竹中労は関川夏央著『水のように笑う』(新潮文庫)を紹介している。関川夏央では『家はあれども帰るを得ず』(文春文庫)も好きな本だ。文章を書くには技術だけでなく、時間も必要だと痛感させられた本だった。
 そのときどきに考えていることがあり、そのときにしか書けない文章もある。しかし十年後二十年後にふりかえる形で書く。渦中にいるときの生々しさが乾かないと書けないものもある。

 二十代のころ、わたしは関川夏央の文体を真似した失敗作をたくさん書いた。深夜、阿佐ケ谷のファミレスで原稿を書いた。恥ずかしい過去とはおもっていない。

 学生時代、わたしは玉川信明さんの読書会に参加していた。玉川さんは竹中労と親しかった。
 一九九二年五月、「竹中労と会う機会を作ってあげようか」と玉川さんがいった。そのころ、わたしは『現代の眼』の元編集長が作っていた『新雑誌X(後、新雑誌21)』の編集部に出入りしていた。
 編集長の丸山実さんも竹中労と長く付き合いのある人だった。編集部では鈴木邦男さんと何度か会ったこともある。鈴木さんはいつ見ても笑顔だった。
 当時のわたしは大学四年目を迎えていたが、卒業できる見込みがなく、中退し、ライター一本で食っていこうと考えていた。

 しばらくして竹中労の訃報を聞いた。亡くなったのは五月十九日、わたしが知ったのはその数日後である。

 二十二歳、迷走期。まだ書けないことがたくさんある。