2020/06/30

戦中の白鳥

『文学・昭和十年代を聞く』(勁草書房、一九七六年)という本がある。
 中島健蔵は戦前の反ファシズム、リベラルの勢力がいかに切り崩されていったかについて語っている。昭和十年代の作家や評論家たちの中には軍国主義に抵抗していた作家もいた。ナチスが共産主義や性関係の書物を焚書している噂が伝わってくると、多くの作家が反対した。

《その時には、日本でもそういうことがおこりかねない空気だった。事実、日本の古典に対しても相当うるさいことを言い出す人間が出はじめたし、検閲がひどくて何も書けない。少しでも左がかりの文章はみんなバッテンだらけだ》

 当時「戦争反対」や「帝国主義」という言葉が伏字になった。伏字ならマシで発禁になる。中島健蔵がペンクラブ常任理事になったころ、日本空軍の重慶の大爆撃が行われていた。ロンドンのセンターから政府に抗議しろと電報を受け取ったが、どうにもできない。

《あの時、ペンクラブには会長の藤村がいたし、白鳥も秋声もいたでしょう。それからもう少し若くなるが、武者小路実篤、堀口大学……ずいぶんいろいろな人がいたけれども、ほんとうに僕が「現役」だと思ったのは白鳥だね。白鳥はすごかったね、やっぱり》

 正宗白鳥は最後まで時勢に便乗しなかったという。

 正宗白鳥著『白鳥随筆』(坪内祐三選、講談社文芸文庫)の「少しずつ世にかぶれて」(一九四七年三月)に当時の心境を綴っている。

《今度の戦争では、日本が負けるだろうと、私ははじめから予想していたのであったが、それは先見の明があった訳ではなく、日露戦争の時にも、私は、小なる日本は大なるロシアに対して終局の勝利は占め得られないだろうと予定していたのであった》

 ようするに負けるとおもっていたから乗り気ではなかった。それで東京を離れ、軽井沢に移り住んでいた。

《私は独自一箇の見解を有っているつもりであり、それを志していたのであったが、今から回顧すると、時代の影響の下に動いていたに過ぎなかった。基督教は外来の清新な宗教であったために、私などはそれにかぶれたのであったが、も少しおそく生れてマルクス主義の流布する時代に接触していたなら、私はそれにかぶれたに違いなかった》

 中島健蔵は白鳥のことを「すごかったね」と語ったが、本人は「かぶれたものに徹底しないのを、私は悲むことがある」と自らの信念のなさをボヤいているのがおかしい。