先日、昭和十二年の『杉並區詳細圖』を購入し、木山捷平の高円寺時代の住所を調べた。
杉並区馬橋四の四四〇。高円寺駅と阿佐ケ谷駅の北側のちょうど真ん中あたりだ。わたしが二十代半ばごろ、高円寺で住んだ三番目のアパートの近くでもある。
河盛好蔵著『文学空談』(文藝春秋新社、一九六五年)に「『メクラとチンバ』の作者」というエッセイがある。
『メクラとチンバ』は一九三一年、木山捷平が二十七歳のときに作った自費出版の詩集の題。
藤原審爾の会で木山捷平が乾杯の音頭をとったら妙なおかしみがあって、みな吹き出してしまったという話から河盛好蔵は木山文学の魅力を語る。
《藤原君の会で井伏鱒二さんと会ったとき、木山文学の話が出て、井伏さんは「木山君は才能をいままで貯金して使わないでいたらしい」といった》
藤原審爾の会は『殿様と口紅』で小説新潮賞を受賞したころだから一九六二年。木山捷平は五十八歳で『大陸の細道』を発表した時期だ。その翌年『苦いお茶』を発表している。直木賞候補になった『耳学問』が一九五六年——五十二歳のときの作品だが、ここから小説の代表作を次々と書いた。
ちなみに河盛好蔵は荻窪(天沼)に住んでいた。亡くなったのは二〇〇〇年三月二十七日、享年九十七。酒好きだったエピソードがたくさん残っているが、長生きした。