渡辺京二著『さらば、政治よ 旅の仲間へ』(晶文社)の「Ⅱ インタビュー」の章は何度読んでもいい。わたしは所収のインタビュー「二つに割かれる日本人」を『文藝春秋SPECIAL』(二〇一五年冬号)で読み、このブログ(「残りの一分」二〇一六年九月十八日)で紹介した。すでに『さらば、政治よ』は刊行されていたが、ブログ公開時には未入手だったため、「二つに割かれる日本人」が本書に収録されていることを記せなかった。
——今回も前回と同じ部分を引用する。
《また長い間、人間は天下国家に理想を求めてきましたが、これもうまくいかなかった。人間が理想社会を作ろうとすると、どうしても邪魔になる奴は殺せ、収容所に入れろ、ということになるからです。古くはキリスト教的な千年王国運動から、毛沢東の文化大革命に至るまで、地獄をもたらしただけでした》
一見、理想を求めることはよいことのようにおもえるが、弊害もある。水清ければ魚棲まず——少数の清く正しく賢い人しか住めない理想社会は、そこに適応できない人にとって苦界となる。
《政治とはせいぜい人々の利害を調整して、一番害が少ないように妥協するものです。それ以上のものを求めるのは間違っているんですよ》
わたしの政治観も渡辺さんの意見と近い、というか、ほぼ同じなのだが、もしかしたら「妥協」という言葉をよくない意味にとらえる人もいるかもしれない。
ラ・ロシュフコーに「(ほとんどの場合)美徳は悪徳の偽装に過ぎない」という箴言があるが、わたしはそこまでいうつもりはない。
何事にもどっちつかずであやふやな立場の人、いいかげんなものやくだらないものが好きな人が許される世の中がわたしの理想である。今は妥協している。
(追記)理想社会について、あれこれ考えているうちに戦後の日本は他力というか敗戦の結果とはいえ、短期間のうちに社会が改良された例ではないかという気がした。このテーマに関しては、結論は保留ということで。