2019/11/12

声高と低声

 午後三時、起床。頭が不調。寒暖の差が激しい日に弱い。
 頭がまわらず、からだが怠い日をどう過ごすか。ただひたすら休息に専念し、だらだらする——これまでそのプランを数えきれないくらい試してきたが、ここ数年は、外に出て、歩くことが増えた。そのほうがいいような気がする。あとは部屋の掃除か。

 寝起き、布団の中で古山高麗雄著『立見席の客』(講談社)を読む。
「発言は金」というエッセイの中で、古山高麗雄は(論争は苦手といいつつ)小田実の『群像』の発言にたいし、反論のようなものを試みている。初出は一九七四年六月十五日の東京新聞(夕刊)。小田実の発言も同時期のものだろう。

 小田実の発言の一部を引用する。

《声高に民主主義とか自由だとか、平等だとか、そんな声高に叫ぶのはやめてくれ、そんな恥ずかしいことやめてくれ、そんなこと叫んだって、浅薄で見てられぬ。それよりは、低声でひそかにつぶやくのがいいんじゃないか——こういう文学批評がよくあるでしょう》

《私も低声でつぶやくのは大事だと思う。ただ、そういうのが流行になって来て、そんなふうに言うこと自体が自己目的になっているのではないか》

 この意見を雑誌で読んだ古山高麗雄は小田実の批判を自分(のような人)に向けられたものと感じ、珍しく強い口調でこんなふうに述べている。

《低声でつぶやくのが大事だと思うと言うこと自体が自己目的になっているなどと、人を馬鹿にしたようなことを言ってはいけない。そうしかできない人がいて、そういう人は、そういう語り方でなければ物が語れないのである》

「発言は金」を読んだとき、「声高」というキーワードから、小田実は吉行淳之介の「戦中少数派の発言」(一九五五年)を想定した批判ではないかとおもった。
 吉行淳之介は戦前戦中の「甲高く叫んだ人種」を強く批判し、戦後の学生運動の指導者たちからも似たような不信感をおぼえると批判した。ほかのエッセイでも何度となく「一オクターブ高い声」という言葉で「声高」派への違和感を述べている。

 古山高麗雄は「低声」派は流行していないというが、小田実の立場からすると、無視できない勢力だったにちがいない。
 二十代のころ、吉行淳之介、古山高麗雄のエッセイを読み、わたしは「声高」派の多い政治活動の場から距離をとるようになった。さらにぼそぼそと小声で呟くタイプの作家ばかり読むようになった。
 いっぽう古山高麗雄は「低声」批判に抗いつつも「臆病な沈黙よりは、愚かな発言のほうがよいとは思う」とも述べている。

 わたしは「自分よりも適任者がいる」とおもう問題にたいし、沈黙を選択しがちだ。平行線になりがちな議論に参加するのも好きではない。
 なぜそんなふうになってしまったのか。