2018/08/09

武田泰淳と東海道

 東名高速道路の全線開通が一九六九年五月二十六日。来年五十周年になる。東海道新幹線の開通が一九六四年十月(東京オリンピックの年)。西ドイツを抜いて日本のGNPが二位になったのが一九七〇年。いわゆる「東洋の奇跡」である。

 武田泰淳著『新・東海道五十三次』(中公文庫)は一九六八年十一月に旅立つ(連載開始は毎日新聞で翌年一月四日から)。つまり東名高速道路の全線開通の年に執筆していたことになる。

《静岡と岡崎のあいだに高速道路が開通したばかりで、私たちはその前日、牧の原のサービスエリアで中食をとっていた。「祝開通東名高速道路 コカコーラ」その他、スポンサーつきのアドバルーンが赤白だんだらで十ヶ以上も揚がっていた》

 自動車(運転手は武田百合子)による東海道漫遊記は時代風俗資料としても貴重である。武田泰淳の『新・東海道五十三次』では東海道をそれ、愛知県のあちこちをまわる。泰淳の兄は知多半島の新舞子の水産試験場で伊勢湾、三河湾の水産資源の生態を研究していた。戦後、「『愛』のかたち」の執筆時、泰淳は新舞子で一ヶ月ほどすごしている(原稿はほとんど書けなかった)。

《椎名麟三、梅崎春生の両氏が講演会の帰途、たち寄ってくれたのが何よりうれしかった》

『新・東海道五十三次』では、知多半島の常滑に下り、半田市、高浜町、碧南市、西尾市、一色町、幡豆町(はずちょう)を走る(一色町と幡豆町は二〇一一年に西尾市に編入)。幡豆町は名鉄蒲郡線。名鉄三河線の「山線(猿投〜西中金)」「海線(碧南〜吉良吉田)」といわれる区間が廃線になったのは二〇〇四年四月。西尾市には予備校時代の友人が住んでいるのだが、行ったことがない。

 話がそれてしまったが、泰淳と百合子は三河湾沿いの町から浜名湖に行き、さらに豊橋に引き返し、伊良湖岬に向かう。

《渥美半島の突端まで行くには、豊橋から半島の内側を貫通する、田原街道の良く舗装された快適なドライブウェイがある》

 伊良湖岬に向かう途中、武田泰淳は杉浦明平と会ったのかどうか。「会った」という記述はない。そのかわり——。

《杉浦明平氏には、ルポルタージュ「台風十三号始末記」(岩波新書)がある。
 氏が町会議員となっていた福江町が、今では泉村、伊良湖岬村と合併して渥美町となった》

 渥美町の合併は一九五五年四月十五日。さらに渥美町は二〇〇五年十月に田原市に編入された。伊良湖岬から再び豊橋を経て名古屋に向かう。名古屋では東山動物園、名古屋城、平和公園に行っている。
 そして三重へ——。
 自動車で東海道を走り抜けた泰淳はこんなふうに述懐している。

《峠の茶屋。その名物。およそ「峠をこえる」という感覚は、東名、名神の二つの高速道路を走っていれば、消え失せてしまう。橋もトンネルも坂も峠も一直線に同じ平面でつながっているのだから「河を渡った」という感覚さえうすれてしまう》

 新幹線、高速道路は、日本人の旅をどう変えたのか。『新・東海道五十三次』は五十年後の「今」を予見している。
 来年の東名高速道路全線開通五十周年にあわせて復刊してほしい。