《何もせんぞと思いつつ、何かをせねばならないぐらい厭なことはないが、何かをせねばならないことが、どうしてこう近頃ふえて来るのか、これは世間の都合だから仕方がないことで、世間に抗することは出来ない》(「何もせんぞ」/富士正晴著『狸ばやし』編集工房ノア)
「何もせんぞ」というわけにもいかず、週末、西部古書会館の大均一祭に行く。初日(土)は二百円、二日目(日)は百円、三日目(月)は五十円——といっても最終日まで売れ残っているかどうかはわからないので初日は街道関係と仕事の資料を中心に十二冊、二日目は何となく栄養になりそうな雑本を十二冊買う。「下半期の古書即売展一覧」も配っていた。
富士正晴は読書と酒と煙草の人だった。そして集団ぎらい、強制ぎらいだった。幼少期から人と歩調を合せるのが苦痛で仕方なかった。世の中にはそういう人が一定数いる。共同作業には向かないが、集団ヒステリーには左右されにくい。これは思想以前の体質かもしれない。
正義や道徳のない世の中は生きづらい。正義と道徳を押しつけられる世の中も生きづらい。
たとえば行列がある。割り込みをするのは悪かもしれない。並びたくない人を無理矢理並ばせようとするのは正しいのか。
正しいか間違っているかは「時の審判」がもっと信用できる。
富士正晴は古典を読みながら新聞の切り抜きをする。時勢に流されず、ゆっくりものを考える。
すぐに答えを出すことが正解ではない。正解がないという答えもある。