藤原審爾著『一人はうまからず』(毎日新聞社、一九八五年)の「梅崎春生 その噂」は「もの書く連中で、戦後、最初の友人は、梅崎春生と江口榛一である」という一文ではじまる。
江口榛一は赤坂書店の『素直』の編集長である。
《「素直」に作品をわたしはのせてもらったし、そのころ梅崎は高円寺よりの阿佐ケ谷に住んでおり、わたしは阿佐ケ谷の外村繁師の宅へ泊っていたものだから、自然、親しくなったのである》
梅崎春生、阿佐ケ谷に住んでいたのか。
梅崎春生の年譜には一九四五年九月に「南武線稲田堤の知人宅にころがりこむ」、一九四六年二月「目黒区柿ノ木坂一五七の八匠衆一宅に転居」とある。
《それ以前、梅崎の噂をよくきいていたし、梅崎と一緒に住んでいた八匠衆一とは、もう知り合っていたから、万更知らぬ仲でもなかった》
一九四七年一月、梅崎春生は結婚、十月に世田谷区松原に引っ越す。松原には椎名麟三も住んでいた。
梅崎春生が「高円寺よりの阿佐ケ谷」に住んでいた時期を推測すると結婚して世田谷に引っ越すまでの間か。藤原審爾が梅崎春生にはじめて会ったのは「秋津温泉」を発表後とある。「秋津温泉」の発表は一九四七年——梅崎春生はその作品を「曲射砲で撃たれたようだ」と評した。
他のエッセイでも梅崎春生に誘われて新宿のハモニカ横丁で飲んだ話などを綴っている。
藤原審爾は一九二一年三月生まれ。幼いころ、両親を亡くし、岡山の父方の祖母に育てられた。
《わたしが育った家は、瀬戸内海の入り海ぞいの町で、岡山市から七里(約二十八キロ)ほど離れたところである。今は、隣町と一緒になり、備前市となっている》
すこし前に笠岡市の古城山公園の木山捷平の詩碑のことを書いたが、詩を選んだのは藤原審爾だったことを『一人はうまからず』の「木山捷平さんの詩のこと」で知る。
《わたしは、大いに迷ったが、「杉山の松」をえらんだ。二十の頃のわたしはこの「杉山の松」に出あい、大きな感銘をうけた》