2020/07/19

福原麟太郎と猫

 先週、都内の新型コロナの感染者数が連日三百人近い数字を記録した。とはいえ、三月末にオーバーシュートだとかロックダウンだとか何とかいわれていたころと比べると、(わたしの)危機感は薄れてきている。
 マスクやトイレットペーパーや常備食品が難なく手に入るようになり、日常生活に不便を感じなくなったせいかおかげか。
 日曜日、東中野まで散歩。途中古書案内処、ブックオフの中野早稲田通店に寄る。古書案内処で福原麟太郎の『野方閑居の記』(沖積舎、一九八七年)を買う。新潮社の版の復刻だが、沖積舎版は巻頭に写真、詩作品、短歌、年譜、それから庄野潤三、阪田寛夫、外山滋比古の栞文が付いている。早稲田通りの東中野界隈は寺が多い。
 業務スーパー東中野店からライフ東中野店へ。ライフ東中野店は衣料品充実している。いつも郷里に帰省したときに買う夏用の長袖シャツも売っていた。三〇%引きだったので二着買う。

 家に帰りカレーを作り『野方閑居の記』再読。「猫」と題したエッセイがいい。昭和六(一九三一)年から十七年ともに暮らした猫のタマの死から戦中戦後をふりかえる。家を失い、猫とともに都内を転々と移り住む。

《私どもは、戦争中とにかく東京にいて戦火と戦ったことを誇としている。私は決して逃げなかった。逃げることは私の学校の勤めが許さなかった。(中略)みんな逃げてしまっては学校も学生も捨てられてしまう。
自分の勤めは勤めなんだから、はなれるのは卑怯だと考えていた。軍国主義でも全体主義でもない。格別えらい思想があったのでもない。ただ、自分のすべきことだと思っていたに過ぎない。だから猫も一緒に東京に留まっていた》

 福原麟太郎は一八九四年十月生まれ。五十歳のときに敗戦を迎えた。生きているかぎり、英文学の勉強をすると決めていた。五月の空襲で学校が焼けた週も読書会を続けた。学校は文京区小石川にあった東京文理大、後の東京教育大(現・筑波大)である。
 戦火にさらされながら教育者の使命を貫いた福原麟太郎は戦後になって疎開していた文化人たちが戦時中の日本の愚かさを嘲笑するのを聞き、腹を立てる。

《何だか解らない、そんなのはフェアプレーの言説ではないという気がして良い心持ではなかった》

《何といっていいか解らないが、己達は、すべき平常を守って来たんだ。逃避者やオポテューニストは少し遠慮してほしいというわけであろうか。私はくさくさしながら、焼け跡の瓦礫を踏んでいまの仮寓へ帰る日が多かった。猫は、いつの日にも私の靴音をきては玄関まで迎えに出て、障子の腰板に頭をすりつけて、だまってまたのそりのそり引っ込んだものだ》

 同書所収の「わが読書」でも空襲のさなかの読書生活を綴っている。朝はシェイクスピア、夜は斎藤緑雨、饗庭篁村などの明治文学を読んでいた。

 中野区野方に引っ越すのは一九四八年八月。タマは新居に引っ越せたのかどうか。今、調べているところである。