色川武大著『ばれてもともと』(文藝春秋)に「節制しても五十歩百歩」というエッセイがある。座右の銘にしたいくらい好きな言葉だ。
山田風太郎もどこかで似たようなことを書いていた気がして枕元にあるエッセイ集の頁をめくる。この二人、健康観のようなものがけっこう重なっている。
『風眼抄』(中公文庫)の「飲めば寝るゾ」は、タイトル通り、酒飲んで寝る話なのだが、山田風太郎ならではの凄みがある。
《しかし、そんなに身体のことに気を使ってどうなるか。一般に健康法というものは、自分には有用かも知れないが、他人には有害なものである。なぜなら、人間はいかなる人間でも、その存在そのものが他人には有害だからだ》
時流に合わない内容かもしれないが、ストイックな言説ばかりだと息苦しくなる。今さらながら不健康を楽しめるのは平和な日常あってのことと痛感する。
山田風太郎の『死言状』(角川文庫)をパラパラ読んでいたら「日常不可解事」というエッセイの中にようやく探していたフレーズが見つかった。
《人間、永遠に健康な老人というわけにはゆかない。五十歩百歩、迷惑をかけるのがほんの少し先送りになるだけではないか。先送りになった分だけ老化するわけだから、かえって迷惑の度合がひどくなるだけではないか。……》
節制すれば、寿命が二十年三十年と伸びるとは限らない。不健康でも日々楽しく暮らせればそれでいいとおもうが、今の時勢では声に出しにくい。
気兼ねなく近所のバーでだらだら飲める日を夢見つつ、今は家でごろごろしている。