昨日今日と寝てばかり。九月の中旬くらいから秋花粉の症状が出ている。近所のビルとビルの隙間にブタクサが生えている。
五日、NHK「ひるまえほっと」の「中江有里のブックレビュー」で『中年の本棚』が紹介される。わたしが「中年本」を集めはじめたのは三十五歳のときに中村光夫を読んだことがきっかけだった。当時、晶文社のウェブ連載で中村光夫の「青年と中年のあいだ」というエッセイを書いた。
三十五歳から五十歳まで十五年。それなりに時間をかけたテーマを形にすることができたのは季刊の連載というペースが自分に合っていたのかもしれない。
臼井吉見著『教育の心』(毎日新聞社)の「歴史と教育」を読み返す。長野県の塩尻、東筑摩の教育会で話した速記録をもとにしたエッセイである。臼井は一九〇五年長野県安曇野生まれ。
《『安曇野』では、作者ながら、ちょっと思い出せないくらい多くの師弟愛を描いています。(中略)先輩後輩のことで特色ありと思うのは、石川三四郎、新居格、大宅壮一ですが、みんな子年で十二歳ずつ違うんですが、これを同年輩の友人の如く描きました。一まわりずつ違う三人の友情と信頼、どこかで本当に強く結ばれているこの特別な友情、どうぞ読んでくださいよ》
石川三四郎は一八七六年埼玉生まれ、新居格は一八八八年徳島生まれ、大宅壮一は一九〇〇年大阪生まれ。年齢も出身地もバラバラだ。石川三四郎と新居格は「自治」の大切さを説いていた人物でもあった。
お上が決めたことに従うのではなく、自分たちが国に参加し、国を変えていくことができる——そういう考え方が「自治」の根本である。
明治期以降の日本は「自治」が根づく前に中央集権国家の「型」を先に作ってしまった。当時の国際情勢を考えると、近代化を急がざるを得なかったのはやむをえないところもあった。
臼井吉見は「自治」なき近代化を日本社会の「最大の欠点」と批判している。戦前だけでなく、戦後もこの欠点を引きずっている。
『教育の心』の「青春の文学」は今読んでもまったく古びていない。
《要するに、いま若い諸君にとって一つの不幸は——不幸といっていいと思いますが、本がありすぎて、本に対する飢えというものをおそらく経験しないことだろうと思います。本に対する飢えですね、ぜひ読みたいけれどもなかなか手に入らない。昔はそれがふつうでありました》
臼井吉見は旧制中学の二年のころ、同じ下宿にいた先輩から『中央公論』を借りた。大正八年九月号だった。臼井青年は『中央公論』という雑誌が出ていることも知らなかった。
その号には芥川龍之介、正宗白鳥、菊池寛、佐藤春夫、谷崎潤一郎の作品が載っていた。
とくに正宗白鳥の「あり得べからざる事」に感銘を受け、文学に深入りするきっかけになった。その話を亡くなる数年前の正宗白鳥にいったら、「君、僕はそんな小説を書いているかね」と……。
臼井吉見は「あり得べからざる事」を読み、「文学というものを初めて知って、自分を考え、人間というものを考えずにはおれない、そういうことが僕の心の中に起こってきたわけです」という。この正宗白鳥の話と旧制中学時代の自由と規律の素晴らしさについて、臼井吉見はくりかえし書いている。しかしそれは当時の少数のエリートしか経験できないことでもあった。
『あたりまえのこと』(新潮社、一九五七年)の「戦中派の発言」では、青年将校と農村青年の兵とのあいだの「断層」を次のように述べている。
《田植の辛さとくらべれば演習など何でもないという農村出の兵、住みこみの奉公人生活よりは軍隊のほうがよっぽどましだという職人や丁稚たち。食って、着て、寝るところのある軍隊生活を内心は喜んでいた多くの兵をぼくもまた知っている。例の近江絹糸の女工さんたちが、最初はたからいろいろ言われても、自分の家にいたときのことを考えれば何一つ不平はないと語っていたのと事情は同じであろう》
二十代のころから戦中派作家のエッセイを読んでいるが、終戦時四十歳の臼井吉見のこの指摘は印象に残っている。
臼井吉見は軍隊生活をこんなふうにふりかえる。
《自分と同じような大学出が数十名いっしょに入隊したのだが、農村や工場からやって来た青年たちとくらべて、無論自分もふくめたわれわれの仲間が、なんという身勝手で、思いあがった、そのくせ空虚で、あいまいな存在であるかを骨身にしみて思い知らされたことであった。これは生涯と通じて忘れることはないだろう》
この「戦中派の発言」は、戦後の「進歩的文化人」の批判にもつながる。
石川三四郎が東京郊外で半農生活の道を選び、新居格が生協運動に尽力したのは「食って、着て、寝る」生活なくして自治も文化も成り立たないと考えていたからだろう。
大宅壮一の話はいずれまた。