2020/08/13

日記

 十二日、昼二時半ごろ、雷が鳴りまくる。バリバリ鳴る。杉並区は二千五百戸以上停電になったようだ。
 新型コロナと関係なく、収入減——旅もせず、外食も減り、かつてないくらい財布の紐が固くなっている。
 人口過密の都心部でさえ、個人営業の店やチェーン店が閉店している。年に一、二回しか行ってなかった店でもなくなると寂しい。いわゆる常連客、年数回の客、新規の客——すべてが店を支えるためには必要なのだ。店の並びが町の風景を作っている。その風景が変わってしまう寂しさもある。

 大岡昇平著『成城だより』の一巻。四月十一日、渋谷の「109」は「トウキュウ(東急)」と読み、営業時間の午前十時から午後九時まで営業していることとかけているといった記述があった。「109」は大岡昇平の息子が(通路や壁面の)設計にかかわっていた。「トウキュウ」の読みは「イチマルキュー」になり、今は「マルキュー」か。
 開業は一九七九年。大岡昇平は新宿生まれ、渋谷育ちでもある。

 六月十五日の日記に「暑い間はひる寝なり」とある。七十代の大岡昇平、けっこう忙しい。寒い日と暑い日は休み休み仕事している。

 神奈川近代文学館の「大岡昇平の世界展」は十月三日(土)に開催延期になった。部屋の掃除をしていたら一九九六年十月の神奈川近代文学館の「大岡昇平展」のパンフレットが出てきた。わたしが文学展パンフの収集をはじめたのは、一九九五年ごろで、かれこれ四半世紀になる。

《大岡昇平が大磯から成城へ移ったのは一九六九年(昭和四十四)六十歳のとしであった》

 同パンフには『成城だより』の原稿の写真も載っている。
 講談社文芸文庫版の加藤典洋の解説には、大岡昇平は武田百合子の『富士日記』を意識していたのではないかと書いている。『成城だより』にも武田百合子の名前はちらほら出てくる。

  一九八〇年六月十六日の日記には「武田百合子さんのマンション、近所なれば、帰りに埴谷と寄る」とある。

《百合子さんはすでに週末は富士北麓の山小屋行きあり。こっちは隣組だが、老衰して梅雨が明けないと行けず。しかしこんどはこっちが「日記」を書いているから「富士日記」の仇取ってやるぞ、といえば、あぶないから近寄らない、という》