2020/08/18

おおらかな読み

 街道歩き再開に向け、日中の暑い時間帯に散歩する。昨日は大手町で取材、五十肩の話で盛り上がる。五十肩以来、万事、安全志向になっている気がする。治ったかなとおもって油断するとすぐぶりかえす。その後、大手町から水道橋まで歩く。途中、神田伯剌西爾でアイスコーヒー。電子書籍でダウンロードした新書を紙の本で買い直す(無駄づかい……ではない)。

 前回紹介した大岡昇平の『対談 戦争と文学と』は二〇一五年八月に文春学藝ライブラリーで文庫化されていたことを知る。ちなみに『成城だより』も昨年中公文庫から三巻本で復刊している。どちらも刊行時の記憶があるような、ないような——最近のことにもかかわらず、いろいろなことがあやふやだ。戦争のことについても、わたしは小説、随筆、戦記などを乱読してきたせいで、事実関係、時系列がおかしくなっている。「戦時中」と一言でいっても昭和十七年と十九年では状況がちがう。どこにいたかでもちがう。しかしそのあたりをきっちり分けていくと、どうしてもまだるっこしい文章になる。

 戦中、困窮していた人もいれば、裕福だった人もいる。一度も飢えや空襲を経験せず、終戦を迎えた人もいる。戦争体験としてはどちらも真実ではある。そこに戦争を語るむずかしさがある。あの戦争は悲惨だった、日本はまちがっていた——そういうストーリーを作ろうとすれば、それ以外の枝葉は切り落とされることになる。

 部屋の掃除中、『大岡昇平対談集』(講談社、一九七五年)を読む。吉田満との対談「戦争のなかの人間」が収録されている。吉田満は東京帝大の法科の学生で学徒兵として海軍に入り、電測士(レーダーの指揮官)として戦艦大和に乗船した。大岡昇平の対談で吉田満は「多少適性検査はあったんですが、しかし無茶な話です。法文系の学生に、しかもたった半年間の専門教育でレーダーをやらせたんですから」と語っている。一九四四年、吉田満二十一歳のときの話である。戦艦大和に乗って、百日くらいで沈んだ(戦死者二七四〇名、生存者二七六名)。 

《だから戦争というものの、初期の頃の華々しさ、カッコよさのイメージは、われわれには一つもありませんね》

 それでも吉田満は海軍のエリートであり、誇りもある。大和で命を落とした仲間のためにも世の役に立ちたいとおもい続けてきた。

《編集部 戦争体験と一口に言いましても、その人の資質とか、ものの考え方、その他もろもろの条件によってずいぶん違うわけですね。

 大岡 だから、人の書いたものをなんか違うと思っちゃうところがおかしいんだな。なんか人の書いたものは読めないところがあるでしょう。一度これは違うぞと思ったら、そのあとを読めないんですよ(笑)

 吉田 戦争体験には、なにが事実かっていうことを、ちょっと超えたところがありましてね、われわれのような極端な特攻作戦の例で、泳いでいる場面なんていうのは、とくにそうですね。ある男は、そのとき小雨が降っていたと言い、実際小雨が降っていたんですけれども、べつの男は夕焼けがきれいだったって言うんですね。(中略)ですから、私の「大和」も、一つの記憶として書かれたかっこうになっておりますけれども、あれについて「違うな」と思う人は、もちろん生き残りの人のなかにいると思うんです。いろいろな人の手で、もっと多くの戦争体験の記憶が書かれていいし、おおらかに読まれていいと思うんです。決しておれの方が正しいんだということではないんですね》

 渦中にいるときは、今の自分がどういう状況にいるのかわからないことが多い。戦争体験をおおらかに読む。たまに今の価値観で過去の出来事を裁こうとする言説を見かけるが、自分がその時代に生きていたとして(現代の価値観において)正しい思考や行動ができたか——わたしは無理だと考える。