明日八月六日、古山高麗雄生誕百年を迎える。
今の文芸誌は生誕百年や没後何年の企画をあまりやらなくなった。バックナンバーとしてとっておくのはそういう号だけなのだが。古本好きの文芸編集者の知り合いも、ほとんど引退してしまった。これから数年のあいだに戦中派の作家や詩人が続々と生誕百年になるが、特集が組まれそうなのは山田風太郎、鮎川信夫、吉本隆明あたりか。
古山高麗雄著『一つ釜の飯』(小沢書店、一九八四年)の「過保護期の終わり」を読む。昭和十六年の春——コメディアンの高勢実乗の「わしゃかなわんよ」という流行語が時局に好ましくないという理由で禁じられた。
《私たちは、このような時代には、江戸時代の戯作者の精神で生きなければ生きようがない、などと言い、戯作精神の発露として、みんなで隅田川沿いに住み、互いにポンポン船を利用して訪問しあい、永井荷風のように娼婦を愛し、国民文学ではなく、黄表紙小説を書こうではないかと申し合わせた》
この「私たち」の中には安岡章太郎もいた。安岡章太郎も今年生誕百年だった。
昭和十六年になると、町から様々な物資が消えた。普通のパンがなくなり、コーヒーも大豆の代用品になった。
はじめて古山さんと会ったときも戦時中のコーヒー事情を聞いた。わたしは二十五歳、古山さんは七十五歳——年の差五十歳。二十五年前の話である。「過保護期の終わり」にも当時二円で本物のコーヒーを飲ませる店に通いつめていた話を書いている。そうこうするうちに大東亜戦争がはじまった。
《ポンポン船に乗って、一時しのぎに自分を茶化し、紛らわしてみても、自分の行く道の先にあるものが、絶望的な状態であることは予見していた》
古山さんに聞いた戦争体験で印象に残っているのは、戦死者といっても栄養失調や病気で命を落とした人が多かったという話である。それから現地では虫(蚊)や蛇が怖かったという。敵と銃を撃ち合って命を落とすみたいなことはほとんどなかった。あくまでも古山さんが経験した戦場の話だが、戦場で食料や薬が払底すれば、人間は簡単に死んでしまう。
当時の軍部を古山さんは強い言葉で批判することはなかった。終始、穏やかに五十歳年下のわたしに戦争のひどさを伝えようとしていた。小柄で小声でぼそぼそ喋る人の戦争の話を聞くことで、自分のような人間が戦場に行けば、ロクな目に遭わないと想像できた。