2020/01/12

甲州の太宰治

 街道歩きをはじめて以来、もともと好きだったがさらに好きになった町は甲府、それから石和温泉である。高円寺からの距離感もほどよい。朝、JR中央線で新宿方面ではなく、高尾方面に向かう電車に乗るのも気分がいい。

《甲州を、私の勉強の土地として紹介して下さったのは、井伏鱒二氏である》

 これは太宰治の「九月十月十一月」という随筆の一文だ。山梨時代の太宰治の文章は心なしか明るい。

《ひそかに勉強するには、成程いい土地のやうである。つまり、当たりまへのまちだからである。強烈な地方色がない。土地の言葉も、東京の言葉と、あまりちがはないやうである。妙に安心させるまちである》

 三年くらい前、山梨で家を探したことがある。甲府あたりで格安の平屋の一軒家はないか。探してみたら何軒かあった(今はどうかわからない)。二〇二七年にリニア新幹線が開通したら、甲府から郷里の三重まであっという間に帰省できる——なんてことを考えていたわけだ。

 以前もこのブログで引用したが、「十五年間」という随筆でも甲府の暮らしを回想している。「十五年間」は故郷・津軽を離れていた歳月のこと。上京後、十五年で二十五回転居。太宰治はこの引っ越しを「二十五回の破産である」と記した。

《私のこれまでの生涯を追想して、幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期は、私が三十歳の時、いまの女房を井伏さんの媒酌でもらって、甲府市の郊外に一箇月六円五十銭の家賃の、最小の家を借りて住み、二百円ばかりの印税を貯金して誰とも逢わず、午後の四時頃から湯豆腐でお酒を悠々と飲んでいたあの頃である》

 最小の家はどんな家だったか。「東京八景」に次のような記述がある。

《昭和十四年の正月に、私は、あの先輩のお世話で平凡な見合い結婚をした。いや、平凡では無かった。私は無一文で婚礼の式を挙げたのである。甲府市のまちはずれに、二部屋だけの小さな家を借りて、私たちは住んだ。その家の家賃は、一箇月六円五十銭であった》

「I can speak」でも甲州の話を綴っている。御坂峠の天下茶屋で仕事をしていたが、太宰治は山の寒気で体調を崩す。

《甲府へ降りた。たすかった。変なせきが出なくなった。甲府のまちはずれの下宿屋、日当たりのいい一部屋をかりて、机にむかって坐ってみて、よかったと思った》

 その後、東京に戻ったが、三鷹の家が空襲で焼け、再び甲府市水門町にある妻の実家に移り住んだ。そこも焼夷弾で焼け、太宰治の甲州生活は終わった。