2024/09/20

鮎鮓街道

 ここのところ短期間に集中して何かを調べることができなくなった。早足で調べると、すぐ忘れしまう。前向きにとらえれば、忘れることで別の方向から調べ直すことになり、それが重なったりつながったりする面白さを味わえる。わるいことばかりではない。

 街道の研究をはじめて、かれこれ八年。新刊書店、古書店をまわるときに、歴史や地理の棚を見ることが増えた。何かひとつのことを知ると、そこから分岐してわからないことが生じてくる。

 東海道でいえば、時代によって鈴鹿峠を通る伊勢廻り、垂水や墨俣(洲俣)を通る美濃廻りのルートがあった。平安、鎌倉時代の古典に東海道が出てくると、美濃廻りが多い。江戸期も近江商人は美濃路をよく利用したという話もある。桑名~宮(熱田)間を舟で行き来した七里の渡しは貴重品の運搬には向いてなかった。

 すこし前にひだ・みの日本歴史街道事務局監修『ひだ・みの日本歴史街道』(昭文社、一九九七年)を読んでいたら「柳津・笠松・川島」のページに「鮎鮨街道跡【笠松町】」という項があった。
「鮎鮨街道」は「鮎鮓街道」とも書く。「鮎鮓」は「あゆすし」と読む。

 将軍家に長良川の鮎鮨を献上するためのルートで、毎年五月から八月まで月一回岐阜から江戸に寿司を運んだ。鮎鮨はちょうど江戸に着くまでに発酵するよう作られていた。

『ひだ・みの日本歴史街道』に「江戸時代、岐阜から名古屋に至る近道は、笠松を経由して木曽川を渡るルート」とある。「笠松ナビ散策コース」(笠松町歴史未来館)の「笠松湊と鮎鮨街道」には「岐阜町のおすし元から加納(岐阜市)の問屋を経て、笠松の問屋で受け継ぎ、一宮(愛知県)の問屋へ送られました」と記されている。笠松問屋跡は名鉄竹鼻線の西笠松駅がもより駅で、岐阜県羽島郡笠松町下新町にある。

 笠松から木曽川を渡り、陸路だと一宮、清須を通る。このルートは旧鎌倉街道、美濃路とも重なる。

 以前、『小栗判官』に出てくる地名を調べていたとき、旧鎌倉街道(小栗街道)の萱津宿(あま市)は中世東海道の交通の要所だったことを知った。

 新城常三著『鎌倉時代の交通』(吉川弘文館、一九六七年、新装版は一九九五年)の「鎌倉の京都の間」によると、東海道は「鈴鹿峠を越え、伊勢より尾張に延びたが、平安中期よりこの道路は裏街道化し、近江・美濃をへて尾張に抜ける美濃路がより多く利用されるように」なり、鎌倉期に「幕府は美濃路に駅制を設置して公式に新東海道と定めた」とある。

《この旧・新東海道の交接地点に、宿が発生し易いが、それこそまさに萱津宿に外ならない》

……ここまで書いたところでインターネットの古本屋で注文していた日比野光敏編『ぎふのすし』(岐阜新聞社、一九九三年)が届いた。これから読む。