2026/06/14

読書三余

 昨年の暮れ、小池一夫原作・神江里見作画『弐十手(にじって)物語』の電子書籍の格安セールがあって全百十巻をまとめ買いした。まとめ買いから半年くらいになるが、まだ読み終わらない。『週刊ポスト』で一九七八年三月から二〇〇三年十一月まで四半世紀以上にわたって連載された長編漫画である。

 この漫画に「三余」という言葉が出てくる(第四巻「五猿の女」/第十一話「三友三余」)。冬(歳の余)、夜(日の余)、陰雨(時の余)——読書に適した三つの時を意味する。正史『三国志』の魏の董遇の言葉である。

『弐十手物語』では「われら十手者にとっては絶対にめぐり来ぬときぞッ」と「三余」について大岡越前が八丁堀の同心(主人公)に語る。

 小池一夫原作の漫画は作中の蘊蓄が面白い。「赤猫」が放火の隠語というのもこの作品で知った。しかし『弐十手物語』は長すぎる。途中で主人公も変わる。続編もある。わたしは「三余」ありの身なのだが、なかなか読み終わらない。

 木曜昼、新中野散歩。高円寺東公園から桃園川緑道を歩いて青梅街道のスーパーの三徳、スギ薬局、肉のハナマサ。スギ薬局は菓子やインスタント麺が充実している。阿佐ケ谷店も新中野店もおにぎりせんべいの銀シャリが売っている。肉のハナマサから住宅街を通る。銭湯の煙突が見える。照の湯。はじめて見た。
 高円寺東公園——新宿の都庁と代々木のドコモタワーの先端部らしきものが見える。翌日の夜、高円寺東公園に行き、光るドコモタワーを確認した。高円寺周辺の路上でドコモタワーが見える場所は少ない。スカイツリーはけっこう見える。

 新中野からの帰り道、ひさしぶりにもみじ山通りを歩く。坂がいい。もみじ山通りも鎌倉街道かもしれない道である。もみじ山公園から中野駅。中野のカルディでベルギーのビールを二本買う。

 四季の森公園を通り、高円寺に帰る。二時間くらい歩いた。靴底が平らな軽いウォーキングシューズだと足が疲れない。雨の日用の防水靴だと一時間も歩かないうちに足が怠くなる。疲労感がまったくちがう。靴のせいなのか、天候のせいなのか。

 最近、万葉集に興味を持ち、飛鳥時代から奈良時代の歴史の本を何冊か読んだ。
 万葉集、生老病死を詠んだ歌が多い。山上憶良は貧困についても言及している。年をとると周囲に厭がられ嫌われてつらいといった感じのことをぼやいている。千三百年くらい前の人も今の人もあまり変わらない。私小説を読んでいるときの感覚に近い。
 高円寺図書館で借りた山上憶良の本が面白かったのでインターネットの古本屋で注文した。山上憶良、奈良時代の人だが、七十四歳まで生きている。大伴旅人も気になる。

 古代から中世にかけて、しょっちゅう内乱があり、中央集権の社会になり、権力が強まると一時の安定期を迎えるが、やがて腐敗し、再び乱世になる。飢饉も起きる。さらに地震などの災害が起きると社会不安が高まる。

 平安時代や鎌倉時代も平和な時期があった。しかし天下太平は続かない。旧体制に不満を抱く新興勢力が出てくる。

 時代の変わり目に文芸はどのような表現をしてきたのか。個人の心理にも世の中、時代の影響は深く刻み込まれている。

2026/06/09

道中閑話

 六月七日(日)、梅雨入り(関東甲信・東海地方)。夕方、阿佐ケ谷散歩。スギ薬局でおにぎりせんべいの銀シャリが売っていた。二袋買う。

 先週の西部古書会館は均一祭。初日、街道関係の本がけっこう出ていた。よくあることだが、一週間ちょっと前に日本の古本屋で買った本を見つけてしまう。
 この日は和田篤憲著『道中閑話 雲助・道中女・宿場』(協和書院、一九三七年)、大島延次郎著『日本交通史概論』(吉川弘文館、一九六四年)など。
『道中閑話』は、函入の本だが、中の本の装丁(大名行列の版画っぽい絵)がかっこいい。「森川武一文庫」という印有。本文はですます調だった。
 巻末に協和書院の図書目録が付いている。

 大島延次郎は『日本の路』(至文堂、一九五五年)を読んで以来、すこしずつ集めている。一八九四(明治二十七)年栃木生まれ。『日本交通史概論』は古代から近代までの道の歴史をまとめた一冊で写真や地図も随所に入っている。

 古代三関(伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発)について「大津を首都としたころに、三関とも近江の国境である大津の外側に、大津京の衛りのため設けられたのであろうと考えられる」とある。
 古代三関が大津京の防衛のために作られたという説は、本居宣長も述べていて、大島延次郎は宣長の説に賛意を示している。

 最新の研究成果——を知るのも面白いが、わたしは昔の学者の本が好きである。参考文献に見たことも聞いたこともないような史料が載っている。

 三十代のころは「(金はないが)時間がたっぷりある」というおもいが、自信の源になっていた。
 五十代後半——金も時間も気力も体力もない。多くの先人たちもこの問題に直面してきた。

 人間の寿命には限りがある。調べものに終わりはない。だからテーマを絞る。ゴールを決める。その重要性はわかっているつもりなのだが、街道に関しては知りたいことがどんどん増えてゆく。二十歳前後に文学が好きになったときもそうだった。「自分の好きな文学はこのあたりだ」とわかるのに十年くらいかかっている。

 街道の研究も十年。そろそろ軸を決めたい。

2026/06/02

都会の隙間

 不規則睡眠期に入る。朝寝昼起の生活が昼寝夜起、夜寝朝起とズレていく。そういう時期、夢をよく見る。
 鈴鹿の郷里の家から近鉄の急行で名古屋に向かう。名古屋駅を抜けて、地下街のエスカに入る。一九八八年、予備校時代の通学ルートである。ひさしぶりにそのころの夢を見た。

 夢の中で漫画喫茶に行く。名古屋ではじめて漫画喫茶を知った。上京後も漫画喫茶によく行った。

 通学や通勤で電車に乗る。今のわたしはそういう生活を送っていない。そのかわり散歩する。高円寺図書館には週二、三日くらい通っているかもしれない。図書館の階段を上がった三階のところでスカイツリーを観測している。
 今、万葉集関係の本を数冊借りている。

 散歩といえば、すこし前、セシオン杉並に行って「ぱーくまっぷ 杉並区公園マップ」を入手した。住宅街の小さな公園も載っている。
 公園の名前、樹木草花の名前……。長年、気にせず生きてきた。

 夜の七時前、桃園川緑道、馬橋稲荷神社、阿佐谷東公園を通り、阿佐ヶ谷パールセンターへ。阿佐谷東公園は何度も通っているが、いつも方向感覚がおかしくなる。
 八重洲ブックセンター阿佐ヶ谷店、世田谷ピンポンズさんの『都会なんて夢ばかり』『感傷は僕の背骨』(本の雑誌社)が平積になっていた。『都会なんて』の「いつものお店で待ち合わせ」にわたしも登場する。よく行く飲み屋も出てくる。家に帰って、三軒茶屋の話を読み返す。
 夜八時、阿佐ケ谷からの帰り道、けやき公園の屋上部で夜景を見る。
 スカイツリーが見える。階段付近から新宿方面を眺める。ドコモタワーと歌舞伎町タワーがよく見える。
 渋谷方面の光るビルは、渋谷スクランブルスクエア。ずっと名前がわからなかった。

 一日一回、遠くが見える場所、空が広く見える場所に行くと、いい気分転換になる。

2026/05/27

荒都

 散歩中、何ができて何ができないかということをよく考える。そうした思索は外を歩きながらのほうがよい。
 家の中だとできないことばかり考えてしまう。

 夕方、妙正寺川まで行く。川沿いの道は風の通りがよい。あと空が広く見える。

 どこを歩くか迷ったら、川、神社、公園を目指す。

 十年前に街道の研究をはじめた。そのうち歌枕に興味が出てきた。万葉集に出てくる地名を地図で調べる。あっという間に一日が過ぎてしまう。
 万葉集には近江大津宮をしのぶ歌がいくつかある。柿本人麻呂の「ささなみの 志賀の大わだ 淀むとも むかしの人に またも逢はめやも」が有名か。

 大津宮は飛鳥時代——西暦六六七年に飛鳥岡本宮から遷都。六七二年の壬申の乱までの約五年間存在したといわれる都である。

 先週の西部古書会館で西郷信綱著『日本古代文学史』(岩波現代文庫、二〇〇五年)を買った。あちこち頁が折れている。前の持ち主は頁の下の角を折る人だったようだ。

 西郷信綱は梅崎春生の旧制第五高等学校時代の同級生(大学も同じ)。一九一六年大分県津久見の生まれ。

《万葉時代には一句の音数が五・七の十二音じたてに定型化していく傾向がいちじるしくなる。また、いくつかあった形式のうちひとり短歌形式が次第に超群するという現象があらわれてくる》

 万葉時代になると、記紀歌謡にはほとんどなかった情景歌、四季の歌が増えてくる。五・七出入りの句は、踊りの足どりからきている。

《『万葉集』をよむ場合、普通、まずすらすらと心をひかれるのは家持か赤人か憶良あたりで、それから人麿が面白くなり、初期への興味がおこってくるのは——もしおこってくるとすればだが——、一ばんおくれるのではないか》

 初期の万葉はとっつきにくく「背のびしないとつかめぬ何か異質なもの」がある——西郷信綱の言葉。わたしは「初期万葉」という区分すら知らなかった。五十代半ばあたりに地理、地名の関心から万葉集を読むようになった。街道を歩いていると、万葉の歌碑をよく見る。メモする。急ぎ足ではなく、ゆっくり学ぶことが古典をたのしむコツかもしれない。

 万葉の時代、さらにその前の時代——歌と踊りは不可分の関係にあった。

『日本古代文学史』では、人麻呂(人麿)の近江荒都の歌を取り上げている。

《玉たすき、畝傍(うねび)の山の、橿原の、日知(ひじり)の御世ゆ、あれましし、神のことごと、樛(つが)の木の、いやつぎつぎに天(あめ)の下、知らしめししを、天(そら)にみつ、大和を置きて、あをによし、奈良山を越え、いかさまに、念(おも)ほしめせか、天(あま)ざかる、夷(ひな)にはあれど、石走る、近江の国の、楽浪(ささなみ)の、大津の宮に、天の下、知らしめしけむ、天皇(すめろぎ)の、神の命(みこと)の、大宮は、ここと聞けども、大殿は、ここと云へども、春草の、茂く生ひたる、霞立つ、春日の霧(き)れる、ももしきの大宮処、見れば悲しも(巻一)》

 西郷信綱は「玉たすき」「あをによし」などの枕詞は神語、口踊歌謡の呪句、聴覚的暗喩だったと解説している。

 冒頭「玉たすき、畝傍の山の、橿原の」を読み、奈良県橿原市に人麿神社があることを思い出した。以前、奈良の橿原からの古道を調べていたとき、人麿関係の神社があちこちにあることを知った。兵庫県明石市の柿本神社、島根県益田市の高津柿本神社もそう。

 郷里の古代三関の鈴鹿関(東海道)は、近江大津宮(大津京)と関係が深い。鈴鹿関は大津京の東方防衛のための関所だった。同じく古代三関の東山道の不破関、北陸道の愛発(あらち)関も大津京のころの交通の要所だった。

 古典を読むとき、東海道が伊勢廻りか美濃廻りか、また伊勢廻りであれば、伊賀越(加太越)か鈴鹿峠越か——その時代の東海道の経路が気になる。

 郷里の三重にいたころ、伊賀や名張は遠く感じていた。街道に興味を持ちはじめてから、それらの地が交通の要所だったと知った。
 四日市や津ではなく、なぜ鈴鹿に伊勢の国府があったのか。
 古代三関の鈴鹿関の管理が国司の重要な任務だったからだといわれている。

 古典や歴史の本を読んでいて、郷里がすこしでも関係していると興味が強まる。
 生まれ育った町や今暮らしている町の知らない歴史を知る。地理や歴史が自分と重なる。

 自分の場所がすこしずつ広がっていく感じがする。

2026/05/22

道具の歴史

 昨晩、深夜二時まで飲んで家に帰ってすぐ寝る。ひさしぶりに十時間睡眠。寝過ぎかなとおもったが、頭と体がすっきりして楽になる。

 いつから家にあるのかわからないくらい長く使っている爪切がある。たぶん三十年くらい(……二十五年くらいかも。自信がない)。自分で買った記憶はない。

 切れ味は新品のころと比べるとかなり落ちている。でも切れすぎないから、使いやすい。新しい爪切もいくつか持っているが、そうはいかない。

 愛用している爪切をお湯で洗った。すると「SAKAI-TOHJI SINCE 1805」という文字が刻まれていた。
 SAKAI-TOHJIは堺刀司。一八〇五(文化二)年創業の和泉利器製作所であることがわかった。

 堺刀司のオンラインショップを見ると、愛用の爪切と同じものがあった。「堺の歴史爪切」というシリーズの「青色 神父」。千百円(税込み)。
 爪切には帽子を被った三人(一人は十字架をかけている)のおじさんの絵が描かれている。
 おそらくフランシスコ・ザビエルとその一行の絵だろう。

 一五五〇(天文十九)年十二月上旬、ザビエルは二人の従者を連れて堺の地を訪れている。

 大阪堺市の二百二十年以上前にできた会社の爪切だと知らずに使い続けてきた。今回はたまたま判明したが、知らないままの道具はいくらでもある。

 家で一番よく使うステンレスのハサミを調べたら、岐阜県関市の長谷川刃物(創業一九三三年)のものだった。さっきまで知らなかった。二十年以上前に高円寺駅の近くの文房具屋で買った。

 岐阜県関市はドイツのゾーリンゲン、イギリスのシェフィールドと共に「世界三大刃物産地」である。

2026/05/16

桃園町余話

 五月十五日(金)、午前中、西部古書会館。『別冊太陽 パノラマ地図の世界』(平凡社、二〇〇三年)を買う。五百円。近所の図書館にもあり、数回借りていた。
 現物を何度か手にとっていると、見つけやすくなる。別冊太陽は二〇〇二年に『吉田初三郎のパノラマ地図』を刊行している。

 この日、コタツ布団を洗濯する。翌日、押入にしまう。コタツ布団と入れ替えで扇風機を出す。

 夜、中野散歩。桃園川緑道を通り、駅の北口に向かい、ブックファースト中野店のちヨークフーズ。四季の森公園を通って高円寺に帰る。この散歩コースも定番になっている。

……二〇二〇年六月五日の当ブログ「中野桃園町」で山本容朗著『作家の生態学(エコロジー)』(文春文庫、一九八五年)所収「野坂昭如」の次の箇所を引用した。

《丸谷才一も、野坂人脈には、欠くことが出来ない。なにしろ、野坂の旧制新潟高校の先輩で、その上、結婚式の仲人である。丸谷は、今、目黒のマンションにいるが、その前、中野にいた。目と鼻の先に住んでいた私は、時々遊びにいった》

 わたしはかつて丸谷才一がいた「中野」の「目と鼻の先」に山本容朗も住んでいたと知り、引用部の「中野」を中野桃園町と勘違いした。丸谷才一に「中野桃園町」(『低空飛行』新潮文庫、一九八〇年/単行本は一九七七年)というエッセイがあり、その印象が強かったからだろう。
 丸谷は一九六七年ごろ、中野桃園町から丸ノ内線の新中野駅が最寄りの十貫坂の近くのマンションに移り住んでいる。

《数年前、杉並と中野の境のところにあるアパートに引っ越した》(「十貫坂にて」/丸谷才一著『低空飛行』)

 山本容朗著『東京近郊ぶらり文学散歩』(文藝春秋、一九九四年)には「ラーメンの町・荻窪を歩く」で「東高円寺駅から徒歩五、六分の場所に住んでいる」とある。
 この部分を読み、山本容朗の住まいは桃園町ではなく、十貫坂の周辺かもしれないとおもったわけだ。

 作家がいつ・どこに住んでいたかという問題はややこしい(引っ越し回数が多い人はとくに)。
 中野桃園町が中野三丁目などの地名に変わったのは一九六六年十月。かれこれ六十年前である。

 わたしが高円寺に引っ越してきたのは一九八九年秋——以来、数えきれないくらい中野駅の周辺を歩いているが、青梅街道の南の十貫坂のほうは不案内だった。

 東京メトロ丸ノ内線の東高円寺駅〜新中野駅あたりをちょくちょく散策するようになったのは二〇二一年以降である。

 故人の評論家がどこに住んでいたか——たぶん些細な問題だろう。昔読んだ本を再読すると、地理と時系列(年代)を読み間違えていることが多い。読書の癖を自覚していても間違える。

 昨日、『作家の生態学(エコロジー)』が行方不明になっていて、半日くらい部屋を探し回った。買い直すかどうか検討していたら見つかった。

《私は、作家の随筆、紀行文など、所謂、雑文のたぐいを読むのが好きだ》

——『作家の生態学(エコロジー)』の表題になっているエッセイにあった言葉。この一文は初読のときから記憶に残っている。自分もまったく同じだとおもったからだ。
 そして「雑文の名手といったら、まず、私は吉行淳之介さんと、山口(瞳)さんをあげたい」と書いている。これも共感した。

 とくに山口瞳の『酒呑みの自己弁護』(新潮文庫、一九七九年/単行本は一九七三年)は山本容朗の「大事な本」だった。

《自宅と仕事部屋に書籍が分散しているせいか、この『酒呑みの自己弁護』は、探せば単行本を含めると、同じ本が五、六冊あるのじゃないか》

 初出は一九八四年ごろ。山本容朗は五十四歳。本が見つからないと買って、そして増える。

『作家の生態学(エコロジー)』は過去の単行本『文壇百話 ここだけの話』(潮出版社、一九七八年)、『現代作家 その世界』(翠楊社、一九七二年、みき書房の増補版あり)などに収録した文章を再編集した文庫である。ひさしぶりの再読だが、面白い。この先も何度か読み返す本になるだろう。

2026/05/11

東京近郊ぶらり文学散歩

 ここ数日、日課の散歩(晴れの日一万歩、雨の日五千歩)は目標歩数に達しない日が続いている。急に暖かくなったせいか、やや夏バテ気味。継続は力というが、時々休んだほうが長続きする——という考え方もある。

 今、所持しているデジタル万歩計は午前三時に歩数のカウントが切り替わる。
 朝寝昼起のわたしはだいたいその時間は起きている。
 午前三時前——ちょくちょく目標の歩数のために散歩していたのだが、その時間に歩くと頭がさえてしまい、眠れなくなる。日課の散歩をはじめたのは、よりよい睡眠のためであるから、これでは本末転倒である。

 前の日おもうように歩けなかったら、次の日、その分多めに歩いて足して二で割る方式も試みた。せっかくの気分転換の散歩にもかかわらず、昨日を引きずっている感じがしてやめた。

 部屋でごろごろしながら、山本容朗著『東京近郊ぶらり文学散歩』(文藝春秋、一九九四年)を読む。同書「水の郷へ、今昔旅模様 土浦」に高田保の名前が出てくる。高田保は一八九五(明治二十八)年土浦生まれ。山本容朗はこの本の中で旧水戸街道を何度か歩いている。土浦は水戸街道の宿場町だった。
 同エッセイには尾崎一雄の名前も出てくる。

《尾崎一雄には「土浦行」という短篇がある。これはこの作家が早稲田大学時代に一方ならず世話になった山口剛先生の三十三回忌の法会のため、土浦に行く話で、昭和四十年一月の『小説新潮』に発表された》

 尾崎一雄「土浦行」は『随想集 四角な机・丸い机』(新潮社、一九七四年)に所収。

 山本容朗は文壇ゴシップの書き手として知られるが、紀行エッセイも素晴らしい。

 同書「ラーメンの町・荻窪を歩く」では、井伏鱒二の『荻窪風土記』に出てくる蕎麦屋の話にふれつつ、こんな一文を書いている。

《私は丸ノ内線・東高円寺駅から徒歩五、六分の場所に住んでいるので、地下鉄に乗ってよく行った》

 以前、このブログで山本容朗は「中野桃園町の住人」と書いたことがある。東高円寺駅は杉並区と中野区の区境が近い。

《荻窪はラーメンの町だが、有名な「春木屋」や「丸福」を避け、「丸信」という店へいく》

 同エッセイの初出は「食の文学館」(一九九一年八月号)。
 山本容朗は一九三〇年四月生まれ。還暦すぎの随筆である。当時、井伏鱒二は生きていた(一九九三年七月没)。

 わたしは「荻窪らーめん はなや」が好きだった。昨年八月閉店した。以来、荻窪でラーメンを食べていない。

(追記) 山本容朗のことを「中野桃園町の住人」と書いたのはわたしの早とちり(「中野桃園町」/文壇高円寺、二〇二〇年六月五日)。 最寄り駅が東高円寺駅の山本容朗の住まいは桃園町ではなく、十貫坂周辺の可能性が高い。

2026/05/06

古典とか

 五月四日(月)の都内の最高気温は二十七度。部屋の換気をしてエアコンの試運転をした。夕方、涼しい風が吹く。そろそろコタツ布団とヒーターをしまう予定である。

 この時期、tenki.jpの「黄砂情報」を時々チェックする。三年前の今くらいの時期、黄砂がすごく飛んでいた日に長時間散歩して体調を崩した。関東の黄砂の飛散量は九州や中国地方より少ないが、それでも空の色が変わるくらい飛ぶことがある。

 岡野弘彦が四月二十四日に亡くなった。享年一〇一。三重県一志郡美杉村(現・津市美杉町)の生まれ。川上山若宮八幡宮の神主の家に生まれた。神社はJR名松線の伊勢奥津駅から山を登ったところにある。駅の周辺は伊勢本街道の奥津宿——旧街道の雰囲気が残っている。岡野弘彦著『花幾年』(中公文庫)に郷里・美杉村の話を書いている。

 一志郡が市町村合併で津市、松阪市に編入された。美杉村が津市になったのは二〇〇六年一月、今年二十周年。平成の大合併以降の地理に疎い。奈良県の橿原と伊勢を直線で結んだとき、その中間あたりが伊勢奥津である。

 連休中、西部古書会館と高円寺図書館に行った。図書館の街道の本は歴史、地理、交通の棚などに分散している。街道と関係する和歌や物語絵巻、浮世絵(名所図)も別の棚にある。
 一つの分野にまとまらないところも街道の面白さかもしれない。

 図書館の隣の福寿院の渓斎英泉の墓参りをする。墓の横に英泉の案内板があり、生没年を見ると、一七九〇(寛政二)年生まれで一八四八(嘉永元)年七月二十二日没とあった。本によっては英泉の生まれた年は一七九一(寛政三)年としている書籍もある。五十七、八歳で亡くなった。
 当時の寿命もそうだが、大酒飲みだったという逸話が残っていることを考えると、よく生きたほうだろう。

 福寿院、長善寺、鳳林寺などがある曲がりくねった道を抜け、環七を渡り、東高円寺のかえる公園(アニメ『輪るピングドラム』に出てくる)、天祖神社に寄り、あまり通ったことのない住宅街の道を歩いていたら、昭和浴場という銭湯の前に出た。そのまま東に進み、中央西公園を通り、北のほうに行くと桃花小学校、庚申橋跡がある。小学校の横の中央公園、橋場公園を抜け、桃園川緑道に出る。コープ中野中央店で惣菜を買って、再び、桃園川緑道を通り、高円寺に帰る。
 桃園川緑道――前から気になっていた今の時期に咲く白い花の木はピラカンサ(バラ科)という名前だった。

 五月二日(土)、昼すぎ、西部古書会館。そのあと野方から練馬にかけて散歩した。野方に行くときは妙正寺川のでんでん橋を渡る。散歩のときの持ち歩き本は久保田淳著『柳は緑 花は紅 古典歳時記』(小学館ライブラリー、一九九三年)。公園のベンチなどで一日十数頁ずつ読んでいる。奥付に「イラスト 柳柊二」とある。春夏秋冬の章のはじめに小さな花や葉っぱの精密な絵が載っている。柳柊二は怪奇もの、SFの挿絵で活躍した人。こういうのを見つけると嬉しい。

 東武ストアで乾麺などを買う。練馬駅北口の平成つつじ公園は(今年の四月から)改修中で入れず。帰りはバスに乗る。
 夕方、三重県、奈良県、和歌山県で地震があった。街道の研究で一八五四(安政元)年十二月の安政東海地震の本を何冊か読んだ。安政東海地震の震源は駿河湾奥。その年(嘉永七)の七月に伊賀上野地震が起きている。
 奈良や上野の地震は怖い。といって、個人にできることはなるべく健康を保つことくらいしかない。何事もなければそれでよし。

『些末事研究』vol.11が届く。特集は「自由に生きてみた」。座談「鶏を捌いて食べる」(内澤旬子、荻原魚雷、福田賢治)に参加した。創刊が二〇一四年三月だから、干支ひとまわり。だいたい年に一回。座談会の自分の喋り、あいかわらず、とっとらかっている。あと人の話を拾わない傾向がある。飲み屋でもよくやってしまう。

 同誌の座談会、大学の話になったとき、「当時は思わなかったけど、今は古典とか地理学とか、そういうのを学生時代に勉強しておけばよかったなって」と喋っている。

2026/04/30

白子と平坂

 街道の研究をはじめたのは二〇一六年六月(この年の五月末に父が亡くなった)からなので、まもなく十年になる。三重の郷土史、郷土文学の本を集めるようになったのも同じころか。
 街道と絡めて郷里(三重県)の歴史もちょこちょこ調べているのだが、今さらながら三重県の場合、陸路(東海道、伊勢街道)だけでなく、海路も重要だったことに気づく。伊勢商人は海運によって栄えた豪商である。

 わたしは東京と三重の往復でJRの在来線(東海道本線)によく乗る。在来線は車窓がいいし、途中下車して宿場町を散歩するのも楽しい。
 豊橋駅~名古屋駅の間は東海道沿いということもあって名鉄に乗ることが多い。

 次に帰省するときはJR東海道本線の海に近い駅を歩きたい。Googleの地図で三河地方のJRの駅周辺を見ていて、平坂街道を知った。
 平坂街道の始点の小坂井はJR飯田線の小坂井駅の近く。平坂街道は三河地方の塩を運ぶ「塩の道」でもあった。

 すこし前の西部古書会館の均一祭で買った海の博物館、石原義剛著『伊勢湾 海の祭りと港の歴史を歩く』(風媒社、一九九六年)の目次を見ていたら第十章「三河湾全域 西尾から豊橋まで」という章があった。
 同章に「名残り少ない平坂湊」という小見出しがあり、「西尾市の観光や文化財地図に、三州五ヶ湊の一つだった平坂湊の史跡を伝えるものはない」と記されている。

 同書によれば「平坂湊は、現在、平坂入江と呼ばれる水筋の奥にあった」とのことだが、正確な場所は不明――。

 三州五ヶ湊は大浜(現・碧南市)、鷲塚(現・碧南市)、平坂(現・西尾市)、犬飼(現・蒲郡市)、御馬(現・豊川市御津町)で、一六三五(寛永一二)年に定められた。
 平坂湊は白子湊(三重県鈴鹿市)ともつながりがある。

 本多隆成、酒井一編『街道の日本史30 東海道と伊勢湾』(吉川弘文館、二〇〇四年)の第三章「東海道と伊勢湾の地域と民衆」の「伊勢湾の海運と伊勢商人」の項に「白子と平坂」という見出しがあった。読んでいたはずなのに記憶にない。知らない地名、固有名詞を読み飛ばしている。たぶんこの癖は治らない。

 江戸時代に白子湊と平坂湊は木綿などの運搬が盛んな港だった。この二つの港は尾張の物資の集荷も担っていた。

《白子廻船が運賃値上げを要求したり、洩積や拾荷などによって仲間荷物の運送に支障をきたしたときは、しばしば平坂が白子の代替港としての役割を担わされた》

 古代から伊勢と三河は伊勢湾をはさんで舟運が行われていた。白子湊も三河と行き来があった港の一つである。
 尾張や美濃の荷物を江戸に輸送するさい、なぜ伊勢湾対岸の白子湊が利用されたのか。

『伊勢湾 海の祭りと港の歴史を歩く』の「鈴鹿 白子港と大黒屋光太夫」の項には「江戸初期から紀州藩の所領だった白子はその親藩としての特権を活用して、商売を発展させた」とある。

 江戸時代の白子湊は伊勢松阪や知多の木綿を集め、江戸に運んだ。庶民の衣料が麻から綿に変わり、木綿を染めるための型紙(伊勢型紙)が発展したのも当時の流通経路と関係ある。
 ちなみに松阪も紀州藩の飛地だった。

 白子湊から江戸に木綿を運び、帰りは房総半島で生産された干鰯(ほしか)を運んだといわれている。干鰯は鰯を乾燥させた肥料で木綿の栽培にも利用された。千葉には伊勢神宮の神領もあった。

 木綿商といえば、国学者の本居宣長の家(三重県松阪市)も江戸に店を持つ木綿問屋だった。宣長自身は商いに興味がなく(若き日に奉公に出るが一年くらいでやめて郷里に帰っている)、ひたすら書物と趣味に耽溺したいと願った道楽者である。地図(絵図)好きでもあった。自作の地図も残している。

 わたしが就職もせず、古本ばっかり読んでいる人生を送るようになったのは本居宣長の「好信楽」の教え……ではないけれど、街道の研究をはじめて以降、松阪は好きな町になった。
 鈴鹿と松阪、滋賀と松阪のつながりにも興味がある。
 鈴鹿もそうだが、松阪も伊勢参宮の往来によって情報が集まり、文化が育った——といろいろな本に書かれている。わたしもそうおもっていた。しかしやはり舟運、商人の情報網は無視できない。

 歴史を知ることで地理の感覚が変わる。地理を知り、歴史の認識が変わる。そういうことが今の自分には面白い。

2026/04/26

平坂街道

  寒暖差か気圧のせいだろうか、今週、軽い頭痛が続いていた。もう治ったが、今は様子見といったところ。
 ちょっとした不調でも不安になる。そして酒を控える。

 週末、西部古書会館。久々に予算オーバー(五千円超)。文学展パンフと街道の図録を大量に購入した。ガレージで『旅』特集「川の旅情」(一九七四年九月号)、『旅』特集「街道と町並みの旅」(一九八六年九月号)――日本交通公社を二冊。幸先よい。特集「街道と町並みの旅」の号は持っているかもしれないとおもいつつ、記憶にない表紙だったので買った。わたしが持っていたのは『別冊るるぶ愛蔵版13 街道と町並みの旅』(交通公社のMOOK、一九八二年)だった。『旅』と『別冊るるぶ』、特集のタイトルは同じだが、内容はちがう。

 日本交通公社出版事業局は『旅 別冊(愛蔵版)』というムックも刊行していた。『旅 別冊』の特集「地図 夢・謎・愉しみ」(一九八四年)、特集「花 情熱・神秘・驚異」(一九八五年)、特集「鉄道 追憶・熱狂・冒険」(一九八五年)の三号集めた。どの号もすごい。

『別冊るるぶ愛蔵版』はよく見る号とあまり見かけない号がある。ある特集の号を気長に探している。

 四、五十年前の『旅』を読むと、もうこの風景は見れない、ということ以上に、細部にまで力を入れ、熱のこもった雑誌を毎月作るのは不可能だという気持になる。

 家に帰り、東海圏の地図を見る。JR東海道本線の愛知御津(あいちみと)駅の周辺から三河湾に向かう平坂(へいさか)街道という道があることを知った。最初は数kmの短い道かとおもったら、約四十kmも続いている。江戸時代の感覚だと徒歩で丸一日の距離である。

 平坂街道は東海道の吉田宿(豊橋)と御油宿の間の小坂井(JR飯田線小坂井駅がもより駅)から分岐し、蒲郡を通り、平坂湊(西尾市)に至る道である。地図(Google Map)でルートを調べていて、何度も道を見失う。

 平坂湊は西尾市平坂町にあった。かつては西三河の水運の要所だったが、矢作川の河口付近は埋め立てられている。街道の終点の港があった場所を探す。「平坂港前」というバス停(平坂町丸山)があるが、わからない。

 今週の土日は高円寺びっくり大道芸開催。火を吹く人と高い所に吊るされて回る人と足に棒をつけて歩く人などを見る。高円寺図書館に行き、『週刊ベースボール』のバックナンバーを読み、街道の本を借りる。
 そのあと阿佐ケ谷散歩。南口のパールセンター商店街のカルディ、ココスナカムラで買物する。
 帰りは阿佐谷東公園を通り、桃園川緑道へ。阿佐谷東公園の隣の保育園に藤棚が見えた。阿佐ヶ谷神明宮の藤もそろそろ見頃か。藤を見るのは梅、桃、桜の次の楽しみになっている。

2026/04/21

四月の花

  四月だけど、初夏のような空気。毎年冬に貼るカイロを三箱(一箱三十枚入り)用意しているが、二年連続で一箱余る。
 二十代のころ、一九九〇年代の話——四月、明け方は冷え、コタツをつけていた記憶がある。
 ここまで書いたところで、夕方、地震。長い揺れ。テレビをつける。三陸沖、マグニチュード7.5(しばらくして7.7に変わった)。岩手・青森・北海道に津波警報が出る。
 高円寺駅北口広場の喫煙所の隣にいつの間にか阿波踊りの銅像ができている。広場に近くにハナミズキが咲いている。

 高円寺駅南口の高南通り(桃園川緑道のすこし南)にヤマモモの木がある。今年になって知った。桃園川緑道はキリシマツツジ、ムラサキシキブが咲いていた。

 日曜日、妙正寺川を散歩。寿橋の近くの西大和公園で藤棚を見る。藤棚の周辺は蜂がけっこういる。
 高円寺の散歩道に藤棚のある平屋の家があったのだが、すこし前に取り壊されてしまった。

『フライの雑誌』136号の特集は「春の渓流を釣り上がるこの一本」。表紙に「ずっと春、希望。」という言葉。「春告魚(はるつげうお)」と呼ばれる魚がいる。魚へんに「春」と書くサワラもそう。郷里にいたころ、よくサワラを食べた。母方の祖母が暮らしていた志摩市はサワラで有名な土地である。

 野中豪さんの「水辺の履歴書」を読み進めているうちにどんどん面白くなる。小学生のころ、フライフィッシングを知り、のめり込んでいく。フライフィッシングを好きになったから、おかしくなったのか、もともとおかしかったから……。
 ニック・ホーンビィの『ハイ・フィディリティ』(森田義信訳、新潮文庫、ハヤカワepi文庫)に通じる問いがこのエッセイにある。『ハイ・フィディリティ』は音楽の話だが。

 大学生になり、車の免許をとり、行ったことのない川に向かう。

《水辺には家や学校とは別の時間があった》

 わたしは同号に「『からだ』と千曲川 南木佳士」というエッセイを書いた。
 ここ数年、タイトルに「からだ」という言葉が入った南木佳士の本を愛読している。南木佳士は長野県佐久市の病院に勤務しながら、私小説を書き続けている(釣りの小説もある)。
 わたしは小説より先に『天地有情』(岩波書店、二〇〇四年)を読んだ。作者が五十二歳のときに刊行されたエッセイ集で同書の「ランプ」にこんな一文がある。

《病者の思考は明日への楽観を欠くぶん、きょう一日の生活の積み重ねでしかない人生の本質に迫りやすくなる気がする》

 作家であり、医師でもある南木佳士はパニック障害を抱えている(うつ病歴もあり)。小説、随筆でも病いの話をよく書く。

 病者の思考とはちがうかもしれないが、わたしも先のことを考えるのが得意ではない。将来の悲観はあまり言葉にしたくない。
 散歩して本を読み、季節の草花の名前を覚える。道や川の名を知る。中高年になると平穏をありがたいとおもう。

(追記)二十四日(金)の明け方、コタツをつける。 

2026/04/15

橘曙覧

 四月十一日(土)、都内は最高気温二十七度の夏日、静岡は三十度超の真夏日だった。睡眠時間ズレる。たぶん寒暖差も関係している。夏用の肌掛けを洗濯して干す。

 昼すぎ、西部古書会館。先週の大均一祭で買った本がほぼ積読状態のため、あまり買わないよう心がける。『橘曙覧入門』(福井市橘曙覧記念文学館、二〇〇二年)、『モダン都市の文学誌 描かれた浅草・銀座・新宿・武蔵野』(江戸東京博物館、二〇一五年)、『特別展 金沢文庫の名宝』(神奈川県立金沢文庫、一九九二年)など。値段は百円から三百円。

『橘曙覧入門』は第三刷(二〇〇七年)。福井市橘曙覧記念文学館に行きたくなる。足羽神社の近くのようだ。同市の福井ふるさと文学館も気になる。
 橘曙覧(たちばなあけみ/たちばなのあけみ)は幕末の歌人で国学者(一八一二~六八年)。本居宣長に傾倒し、何度か伊勢神宮に行っている。宣長の墓参りもしている。

「橘曙覧関係地図」には一八六一(文久元)年、福井からの伊勢参宮の旅の足取りが記されている。琵琶湖の東岸から関ヶ原古戦場、養老の滝、多度山をまわる。現在の鉄道でいえば、養老鉄道のルート(養老街道)を通っている。
 伊勢国の一宮は鈴鹿の椿大神社といわれているが、近年、多度山の多度大社が一宮だったのではないかという説を見聞きする。一宮問題はややこしい。

 その後、多度から名古屋に向かい、佐屋街道を通り、桑名、白子、松阪、伊勢へ。
 帰りは伊勢から松阪に戻り、奈良、大阪、京をまわり、再び、琵琶湖東岸を通り、福井へ。橘曙覧が歩いた名古屋から伊勢、奈良、大阪をまわるルートは近鉄っぽい。橘曙覧にちょっとシンパシーを覚える。

 橘曙覧、享年五十六。今の自分の年齢だ。生きていると年下の過去の偉人が増えていく。

《たのしみは 朝おきいでて、昨日まで
    無りし花の 咲ける見る時》

 一九九四年六月十三日、米大統領ビル・クリントンは天皇皇后両陛下の訪米歓迎式典で橘曙覧のこの歌をスピーチで取り上げた。

 橘曙覧は「たのしみは~なんとかの時」という形式の歌をたくさん作っている。お笑いコンビのいつもここからの「悲しいとき~」は曙覧に通じる気がする。

 散歩中、花を見るのが好きになった。老いてゆく中にも楽しみはある。

『モダン都市の文学誌 描かれた浅草・銀座・新宿・武蔵野』は二十数ページの冊子だが、表紙に龍膽寺雄の名前と顔写真あり。「西郊の玄関口・新宿」の章は、龍膽寺雄の「新宿スケッチ」と共に当時の新宿の絵、写真、広告、小田急電車案内(鳥瞰図、昭和初期)などが載っている。龍膽寺雄はシャボテン(サボテン)の研究家で収集家でもあった。龍膽寺雄は高円寺に住んでいたこともある。

『特別展 金沢文庫の名宝』――冒頭付近の真鍋俊照の「金沢文庫の文化財」のところを読んでいたら、ある連歌が引用されていた。

《すみそめの色にも身をはなしつれど 道
 又この春も花をこそみれ      理》

 金沢文庫所蔵の「連歌懐紙」のなかの句。真鍋氏はこの句を「墨染めの衣をきて俗世間を離れる身になってしまったが、また今年の春も花を観ると感慨にふけり物思いにしずんでしまう」と解説している。

 名歌鑑賞の解説は、春に花(桜)を見ることがある種の感傷や儚さと結びつけていることが多い。中世の人にも橘曙覧の「たのしみは~」という感覚はあったのではないか。昔の人の心の機微みたいなものがよくわからない。

 今の人と昔の人の感覚は同じではない。でも何がどうちがうのかわからない。中世の絵巻物の図録を見ていると、どれもこれも同じような絵におもえる。不案内な分野はたいていそうおもう。

2026/04/10

わからないまま

 先月末から高円寺駅と阿佐ケ谷駅の間の高架下のビッグ・エー杉並阿佐谷南店が改装のため臨時休業していたのだが、リニューアルオープン。ビッグ・エーでコーヒー豆とビールをよく買う。高円寺に引っ越して以来、中央線のガード下を数えきれないくらい往復している。ビッグ・エーができたのは何年ごろだったか。昔からあったようにおもえるし、つい最近のようにもおもえる。
 夜、近所の飲み屋。日付が変わり、隣に座っていた常連客の誕生日になった。三十八歳になったらしい。
「ハンカチ世代だ」と口に出る。ハンカチ王子、二十年前か。時の流れは早い。

 福原麟太郎の随筆「命なりけり」の題名は西行の「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」からとっている。一一八六(文治二)年、西行六十九歳の歌である。
 学生のころ、鎌倉幕府ができた年は一一九二年(いい国つくろう鎌倉幕府)と習ったが、今は一一八五年説が有力になっている。西行の「命なりけり小夜の中山」は鎌倉時代の歌ということになる。

 小夜の中山(静岡県掛川市)は東海道の日坂(にっさか)宿と金谷宿の間にある峠で東海道の三大難所の一つ。
 わたしは西行の「年たけて」の歌を知り、歌枕に興味を持つようになった。
 街道の本を読んでいると西行と芭蕉の名がやたらと出てくる。二人はわたしの郷里の三重県とも縁が深い。鈴鹿の歌、句もある。東京と三重の間に歩きたい道、見たい川がたくさんある。

 西行が出家したのは二十三、四歳。出家の理由は諸説あり。調べれば調べるほど、わからないことだらけ。「命なりけり小夜の中山」はいつごろの作品なのかわかってる。しかしわからない歌のほうが多い。

 くらもちふさこ『花に染む』(クイーンズコミック、全八巻)を読み返し、この題も西行の歌からとっていたのか……と今さらながら気づく。気づくのが遅い。

 文学にせよ歴史にせよ地理にせよ、雑学のカケラが頭の中に散らばっている状態だ。何かを理解するには知識の整理整頓が必要なのだが、そういうことを怠ってきた。興味がとっちらかっている。そのおかげで古本趣味が続いているともいえる。
 何がやりたいのかわからない。だから本屋(古本屋)に行く。本に反応して何かしら考える。気がついたら、五十歳半ばを過ぎていた。あと干支が一回りで西行の「命なりけり」の年になる。
 十二年前のわたしは四十四、五歳。そのころ、自分は何に興味を持っていたのか。二〇一四年四月六日のブログに「隠居欲」という記事を書いている。

《この先、生活の「縮小」がテーマになる気がしている》

 五十歳のわたしは生活の「縮小」ができなかった。今のわたしはとっちらかった興味を「縮小」したい。それは容易ではない。たぶんできない。

2026/04/07

大均一祭

 春先、飲み屋でひとり暮らしをはじめた若者に会うと「一日五分でもいいから毎日部屋を換気したほうがいいよ」と助言していた。とくにインドア趣味の人。家に長時間こもっていると空気が澱む。
 最近は同世代の酒飲みに水分補給の大切さを説いてしまう。酒を飲んだ翌朝(翌昼)、寝起きに足をつったりするのは水分不足のせいだ。風呂に入る前や後も水を飲む。五十代以降、咽の渇きが鈍くなった。散歩のときも気をつけている。

 四月四日(土)から西部古書会館の大均一祭(初日一冊二百円、二日目百円、三日目五十円)。三日連続で行く。
 初日は『第八回特別展図録 絵図の世界 ふるさとの風景の移りかわり』(土浦市立博物館、一九九二年)、『ダブル・インパクト 明治ニッポンの美』(芸大美術館ミュージアムショップ/六文舎、二〇一五年)、『少女ロマンス 高橋真琴の世界』(PARCO出版、二〇〇四年)、吉田健一『吉田茂・大磯清談』(文藝春秋新社、一九五六年)、富岡多恵子著『歌・言葉・日本人』(草思社、一九七二年)など。

 今回買った本はハンコが押してあったり、鉛筆の書き込みがあったり、背焼けしていたり、読む分には問題ないが、やや難ありのものが多い。『絵図の世界 ふるさとの風景の移りかわり』は茨城県土浦市内の絵図を収録した図録である。水戸街道の土浦宿、旧街道の風景が残っている。鎌倉古道も通っていた。前に、土浦を歩いたのは雪の日だったので、晴れの日に訪れたい。
『吉田茂・大磯清談』は何年か前に手放してしまったので買い直した。大磯も好きな宿場町だ。西に向かって歩いていると富士山が正面に見える。
 富岡多恵子著『歌・言葉・日本人』は装丁が気になって手にとる。扉を見たら湯村輝彦だった。
『ダブル・インパクト 明治ニッポンの美』はボストン美術館と東京藝術大学のコレクションを合わせた展覧会図録。これは当たりの予感。同図録の「日本画誕生」によると、「日本画」は「西洋画に対して自国の絵画を対峙させるために〈必要とされた〉絵画ということができる」とある。
 明治以降、「西洋画」が入ってきたことで「日本画」という新しいジャンルが生まれた。絵にかぎらず、文学や音楽もそうした流れがあるようにおもう。

 二日目は鳥越憲三郎・文、柴田秋介・写真『カラー 吉備路の魅力』(淡交社、一九七九年)、「江戸川ブックレット 古文書にみる江戸時代の村とくらし② 街道と水運』(江戸川区教育委員会、一九九一年)、『古地図ライブラリー2 嘉永・慶応 江戸切絵図で見る 幕末人物・事件散歩』(人文社、一九九五年)、『自然読本 夢・眠り』(河出書房新社、一九八一年)、フィリップ・ホセ・ファーマー著『異世界の門 階層宇宙シリーズ〈2〉』(浅倉久志訳、ハヤカワ文庫、一九七四年)など。

『カラー 吉備路の魅力』は初日に見なかった。見落としたのか補充したのか。今回の大均一祭で一番の収穫だった。写真もいい。あとがきに「吉備はわたしの故里である。古代史の研究に手をつけはじめてから、故里だけに解明したいという熱望に燃えていた」とある。鳥越憲三郎は環境社会学の鳥越皓之の父でもある。
『幕末人物・事件散歩』は「江戸幕府鉄砲組百人隊」(江戸幕府鉄砲組百人隊保存会)の資料のコピー(二〇〇二年?)が挟まっていた。古本は嬉しいおまけが付いてくることもある。
『異世界の門』は深井国の装丁。深井国(一九三五年〜)は一九六〇年代につげ義春と同居生活を送っていたこともあるイラストレーター。
 原題は「THE GATE OF CREATION」。階層宇宙シリーズが「The World of Tiers」で直訳すると「階層世界」。浅倉久志はこのシリーズ名から『異世界の門』と訳したのかもしれない。

 月曜の大均一祭のあと、馬橋公園散歩。東側の芝生で花海棠(ハナカイドウ)を見る。バラ科リンゴ属の落葉低木。西側の喫煙所の近くに牡丹桜も咲いていた。牡丹桜は染井吉野より咲くのが遅い——というのは尾崎一雄の短篇「苔」を再読して知ったばかり。馬橋公園からすこし歩いてお伊勢の森のバス停のちかくの大和町の蓮華寺で枝垂れ桜を見る。葉桜になりかけ。御衣黄(ギョイコウ)という薄緑の花の桜もある。八重桜の一種らしい。

2026/04/05

下曽我へ

 三月三十一日(火)、尾崎一雄の命日。小田原市の下曽我へ。新宿から小田急で新松田駅、そこからJR御殿場線の松田駅に乗り換える。松田駅から国府津駅方面の電車は一時間に一本くらい。すこし時間があったので松田駅周辺を散歩した。ロマンス通りを歩いて酒匂(さかわ)川へ。酒匂川、いい名前の川だ。十文字橋を渡る。渡ってすぐ戻る。松田駅〜下曽我駅は六・四キロ。今度下曽我に行くときは松田駅から歩きたい。

 尾崎一雄の幻の新聞小説『とんでもない』(春陽堂書店)の主人公は小田急小田原線に沿って道に迷いまくりながら徒歩で下曽我にやってくる。学生時代、尾崎一雄は徒歩で下曽我〜東京を往復している。片道八十キロ。
 下曽我駅午前十時十八分着。待ち合わせは午前十一時前だったのだが、雨が強くなってきたので駅のちかくの小田原市梅の里センターに寄り、在りし日の雄山荘の写真を見る。

 大森のカフェ「昔日の客」の関口夫妻、『父のおじさん 作家・尾崎一雄と父の不思議な関係』(里文出版)の田中敦子さんと宗我神社に向かい、そのあと墓参り。さらに雨が強くなる。寒くない日でよかった。

 神道の墓参りの作法をほとんど知らなかったので事前にインターネットで調べた。数珠はいらない。
 榊の葉は関口さんが用意してくれた。酒を供えるとき、尾崎一雄が酒をやめていた時期の話になる。
 晩年はウイスキー(オールドが好きだった)を飲んでいた。こんな話で盛り上がる機会はなかなかない。

「昔日の客」の関口直人さん、『父のおじさん』の田中さん——ふたりの父親は尾崎一雄の小説のモデルになっている。

 天気がよければ、関口夫妻と田中さんを弓張の滝や曽我丘陵の近くまで案内するつもりだった。雨が強くなってきたので雄山荘跡へ。太宰治『斜陽』の舞台、太田静子が『斜陽』の元になった日記を書いた雄山荘(大雄山荘)が火災で全焼したのは二〇〇九年十二月二十六日である。太田治子は雄山荘で生まれている(一九四七年十一月生まれ)。

 宗我神社の周辺、晴れていれば富士山がよく見える。

『新編 閑な老人』(中公文庫)に「苔」という短編を収録した。元の『閑な老人』にも入っている。

《神社の大きな四、五本は染井吉野なので、すでに葉桜なのは当然だが、上隣りや向いの八重桜もしぼんだのに、わが家の牡丹桜だけまだ見られるというのはどういうわけだろう》

 尾崎一雄の作品を読みはじめた三十歳前のころは「苔」のよさがピンとこなかった。ただ、この作品の最後の一行は印象に残っている。七十二歳の短篇。

 下曽我駅から小田原駅へ。国府津駅の乗り換えのさい、ホームから海が見える。「ここから、相模湾、近いですよ」といったら「見に行きましょう」となって、みんなで途中下車する。国府津の海、雨で波が荒れていた。

 小田原駅で食事をして小田原城へ。駅の案内板の地図、川崎長太郎の小屋跡が記されている。「キャッと叫んでろくろ首になる」の牧野信一も小田原生まれ。

 なぜか小田原は私小説作家と縁がある。

2026/04/01

中野の花見

 土曜日、中野散歩。四季の森公園の桜を見る。花見客がたくさんいた。桜だけでなく、花桃(ハナモモ)が咲いている。
 中野通り沿いの桜並木をすこし歩いて、駅南口に向かい、桃の花を見る。南口のサンロード中野・桃商会の通りには照手桃(テルテモモ)があった。花桃の一種で小栗判官の照手姫から名前をとっている。照手桃は相模原市で品種改良された桃(ほうき性樹型)である。
 このあたり昔は桃園町という町名だったからか、桃の木がけっこうある。

 中野のコープみらいで冷凍チャーハン(わりとあっさり味)を買い、桃園川緑道を通って高円寺に帰る。自分でもチャーハンはよく作るが、冷凍チャーハンの進化には敵わない(あと安さも)。

 日課の散歩(一日一万歩)で歩きたい気分じゃないときでも歩いているうちに、樹木や草花が好きになった。同じようなことのくりかえしの中にも変化がある。

 二〇二六年になって、まだ三ヶ月ちょっとだが、世の中の話題展開の速度についていけない。
 インターネットはその時々の気になる情報が自分の許容量を超えて集まってくる。どこかで制御しないと自分の思考が拡散してうやむやになってしまう。
 半世紀以上前の古本(古雑誌)を読んだり、音楽を聴いたりするのは、頭を冷ますのによい。

 文芸創作誌『ウィッチンケア』Vol.16に「ブログの話」を書く。最初「ブログ二十年」という題をつけていたが、原稿を送る直前に変えた。なぜ変えたのか、よくわからない。

 年に一回発行の同誌でわたしは私小説風のエッセイを書いてきた。連作ではないが、古本の話、住まいの話、散歩の話など、どこかでつながっている。

 日曜日昼すぎ、西部古書会館(木曜日から開催していた)。『浅野竹二の木版世界』(府中市美術館、二〇一七年)、『武者小路実篤記念 新しき村美術館』(新しき村美術館、一九八八年)、滝田ゆう『寺島町奇譚 ぬけられます 現代漫画家自選シリーズ』(青林堂、一九七一年)、佐藤春夫著『打出の小槌』(講談社学術文庫、一九九〇年)など。

 浅野竹二の図録は手にとってパラパラ見ているうちに気に入った。一九〇〇年十月二十四日京都生まれ、一九九九年二月十日没(同図録の年譜)。インターネット上はウィキペディアをはじめ、一九九八年没になっている記述も多い。いずれにせよ長生きだ。

 浅野竹二、若いころは繊細な風景画を描いていたが、途中で画風が大きく変わり、九十代になるとポップアートみたいな絵になる。

 画家の中にはずっと同じような絵が描き続ける人もいる。そういう人も面白い。

 ブログの話に戻るが、ずっと同じことを続けていると、どこかで飽きてくる。そこから模索がはじまり、工夫を重ねる。そうした模索や工夫を経て、何がどう変わるのか。
 年々、働かないおじさん(おじいさん)の日記になりつつある。それもまたよし。

(追記)浅野竹二の生年を「一九九〇年」と書き間違える。さらに「一八九〇年」と間違えて直してしまう。注意力散漫。あと佐藤春夫著『打出の小槌』を講談社文芸文庫と書いていた。訂正した。

2026/03/28

宿酔の読書

 夜、日付が変わった時間、飲み屋の帰り、ちょっと寄り道して高円寺駅の南口の枝垂桜を見る。梅も見る。この日、小雨の中、桃園川緑道、馬橋公園の桜も見た。どうやって家に帰ったのか、記憶がない。

 昼起きて『朝に俗銭を得て 夕に詩をつくる 木下夕爾随筆集成』(藤井基二編、中央公論新社)を読みはじめる。読み終えるのがもったいない。
 木下夕爾は広島県深安郡上岩成村(現・福山市)の生まれ。
 木下夕爾は井伏鱒二のつながりで知った。二人とも福山生まれである(編者の藤井さんも)。木下と井伏は釣り仲間である。木下の詩と俳句は読んでいたが、随筆はほぼ未読だった。
 ふくやま文学館は二度行った。そのときだったか、岡山在住のカメラマンの藤井豊さんが「木下夕爾という詩人がええんじゃ」みたいなことを言っていた記憶がある。この記憶に自信がない。
 表題「朝に俗銭を得て 夕に詩をつくる」という随筆に「はじめ早稲田にいましたが中途また叔父に死なれ、その業をつぐべく名古屋の薬専にうつりました。この学校は西行の歌で有名な鳴海町の丘の上にあります」とある。

 藤井基二さんの解説によると、薬専は愛知高等薬学校(後の名古屋薬学専門学校)とのこと。解説、研ぎ澄まされた、心のこもった文章だった。

 家業を継ぎ、郷里福山で詩や俳句を作る。校歌もたくさん作っている。そういう文学の道もある。

 寝転んでぱっと開いたページに「鮠釣りのことなど」というエッセイがあった。井伏鱒二に釣りを教わる話。友人の近江卓爾も登場する。すべての行がいい。文末に「一九六五年三月」という日付がある。木下夕爾(一九一四年十月二十七日生まれ)が亡くなったのは一九六五年八月四日。五十歳。
 梅崎春生(一九一五年二月十五日生まれ。六五年七月十九日没)と生没年が近い。
 二十代後半から、わたしは作家や漫画家の没年が気になるようになった。文学展のパンフレットの収集をはじめたのもそのころで、暇さえあれば年譜を見ている。
 一年一年、年をとる。その没年を知り、木下夕爾の文章を読む。生きたいと願う。その願いが詩になる。

 本の内容と関係ない感想がいろいろ浮かんでくる。夜、また酒を飲む。

2026/03/23

雑記

 三月中旬、確定申告をすませた。毎年書類が変わる。杉並税務署からまっすぐ西に行くと善福寺川が見えてくる。杉並税務署周辺の道、どういうわけか方向感覚がおかしくなる。このあたりで川が大きく曲がる。その近く、鎌倉街道といわれる道も通っている。阿佐ヶ谷パールセンターは鎌倉街道の枝道だった。

 善福寺川の相生橋から東に向かい、梅里中央公園へ。蠟梅、まだ花が残っている。青い芽が出ていた。すこし南に向かい、五日市街道を歩く。路上から富士山は見えなかった。まだ見たことがない。

 別の日、野方あたりを散歩した帰り道、高円寺のサンカクヤマの店頭で『祝祭都市 江戸東京 江戸東京博物館所蔵浮世絵版画コレクション』(東京都江戸東京博物館、二〇一七年)。横長の図録。百八十七頁。浮世絵関係の図録としてもかなりいいものかもしれない。

 同図録の最初に出てくる浮世絵が橋本貞秀の「東都両国ばし夏景色」。一八五九(安政六)年。江戸の川開きは旧暦五月二十八日から三ヶ月。貞秀の絵、橋の上にめちゃくちゃ人がいる。川に船がいっぱい描かれている。
 橋本貞秀は「空飛ぶ絵師」といわれた歌川貞秀の別名。一八〇七(文化四)年生まれ。二十歳ごろ、十返舎一九の「諸国万作豆」の挿絵などを手掛けている。歌川貞秀は五雲亭とか玉蘭斎とか、画名が複数あってややこしい。歌川何とかという名前も多すぎて混乱する。

 土曜日、午前十一時ごろ、西部古書会館。図録(物語絵巻、街道関係)が安かったので買い漁っていたらカゴ山盛りになる。
 ガレージで福原麟太郎著『生活の中にある教養』(河出新書、一九五五年)を見つける。鉛筆線引きあり。百円ならよし。古書展の棚を見るとき——単行本と文庫に目がいってしまい、新書を見落としがちになる。

 同書「文学について」に「生活が一番大切である。文学はそれを教え、その為の良き忠告を与えるかも知れないが、生活の次のものである」という箇所があった。

《文学というものは面白い楽しいものだ。然し、余計なもの、ひまな時や草疲れた時に読めば結構なものだ》

 それから『えすとりあ』季刊3号の水木しげる特集(えすとりあ同人、一九八二年)を買い、家に帰って読んでいたら、田村治芳「キャラメルひとついかが。悪魔くん」というエッセイがあった。田村さんは『彷書月刊』の編集長である。

 この日一番の収穫は文学展パンフレットの『阿部知二 抒情と行動 昭和の作家』(姫路文学館、一九九三年)。初日の午前中に行ってよかった。阿部知二(一九〇三〜七三)は一九三二年から六九年まで荻窪に住んでいた。

 久しぶりに古書会館でCDを買う。『Runt.The Ballad of Todd Rundgren』(ビクター、一九九九年)。紙ジャケ限定版(帯付)がおにぎり一個分くらいの値段だった。アルバム(セカンドアルバム)は一九七一年発売。CDは何度か復刻されているが、ジャケットが不穏すぎて、これまで買わずにいた。二十代のころ、トッド・ラングレンの初期のアルバムやユートピアのアルバムは入手難だった記憶がある。

 このアルバムを聴いた後、ダリル・ホールとトッド・ラングレンがセッションしている映像をユーチューブで観た。あらためて二人の歌唱力のすごさを思い知る。二人の声質は似ている気がする。
 ちなみに、トッド・ラングレンのファーストアルバムのタイトルも『Runt/ラント』。こちらは長年の愛聴盤。『Runt』の「We Gotta Get You a Woman」に「歩いたほうがいいよ」という歌詞がある。いい曲だ。 

2026/03/18

先ず、睡眠

 季節の変わり目だからか、夕方四、五時に起きる日が続いている。夜の散歩。馬橋公園、喫煙所の近くでギターの練習をしている若者がいる(姿は見えない)。

 池波正太郎著『男のリズム』(角川文庫、単行本は一九七六年)の「私の一日」に「人間、五十を越えると、先ず、睡眠である」という一文があった。

 このエッセイを書いたころの池波は五十代前半。

《いまの私の一日は、つまるところ、一日の終りの眠りを主体にして組み立てられているようだ》

 わたしも睡眠優先の生活を送っている。寝不足は健康の大敵である。
 以前は旅行のとき、出発前まで仕事して、ほとんど寝ずに家を出ることもあったが、そういうことはやめた。予定を組まず、調子がよければ行く、調子がよくなかったら日程を変える。郷里の三重に帰省するさい、午前中に起きたら途中下車しながらの旅、昼すぎまで寝てしまったら新幹線に乗る。仕事より趣味より睡眠である。

 池波正太郎は一九二三年一月生まれ。亡くなったのは一九九〇年五月。享年六十七。

 わたしは今年五十七歳になる。池波正太郎の没年まで十年。いつまで生きるわからない。春が来て夏が来て……一年が過ぎる。年をとる。マルエツ若宮店に向かう途中の妙正寺川沿いの桜は蕾だった。

 話は変わるが、日本の古本屋で『前川千帆名作展』(リッカー美術館、一九七七年)を注文した。五百円(+送料)。図録の古書価はわからないのだが、もっと高いかとおもっていた。リッカー美術館の入場券の半券(三百円)がはさまれていた。嬉しいぞ。同名作展は東海道の新居宿、土山宿の肉筆画も収録している。
「前川千帆・その資質と作品」(吉田漱)の解説にも東海道の話が出てくる。

《大正10年5月1日、中央美術協会の主宰で日本漫画会の東海道五十三次漫画紀行が計画され、岡本一平、池部釣、近藤浩一路、細木原青起、代田収一、寺(幸?)内純一、中西立頃、池田永治、小川治平、森島直三、服部亮英、山田みのる、在田稠、宍戸左行、水島爾保布、清水対岳坊、等と参加》

……いずれも名のある画家(漫画家)なのだが、彼らの多くは新聞社にいた。前川千帆も読売新聞や國民新聞などに所属していた。
 幸内(こううち)純一、図録は「寺内」となっている。誤植かな。「寺」と「幸」、似ているといえば似ている。

 大正時代、鉄道の普及、車道の整備が進んだ結果、東海道ブームのようなものがあったのかもしれない。岡本一平は東海道好きとしても有名で、当時、日本漫画会の街道の絵は大きな話題になった。

 絵や漫画も時代の空気を帯びている。

2026/03/15

前川千帆

 三月十九日(木)に発売予定の本の雑誌編集部『この作家この10冊(3)』(本の雑誌社)が届く。わたしは「吉行淳之介の10冊」を書いた。吉行淳之介のエッセイ集が中心の選書である。最初はもうすこし小説とエッセイのバランスをとったほうがいいのではないかと考えた。しかし自分が読み返すのはほぼエッセイなので致し方ない。初出は『本の雑誌』二〇二〇年六月号。

 十四日(土)、昼すぎ、西部古書会館(木曜日から開催だった)。気になる図録があったのだが、状態がよくなかったので棚に戻した。しかし帰り道に「買わなかったら後悔しそう」と折り返し、『平木コレクションによる 前川千帆展』(千葉市美術館、二〇二一年)を買う。
 絵の好みは自分の軸みたいなものがない。巧拙もわからない。今は人物画より風景画に惹かれる。

 年譜を見ると、前川千帆(せんぱん)は一八八八(明治二十一)年、京都生まれ。一九六〇年没。戦前、「おてんばチャッピー」という漫画も描いている。田中冬二の『故園の歌』(アオイ書房、一九四〇年)の装丁、挿絵も前川千帆。アオイ書房は詩誌『新領土』を刊行していた出版社でもある。

 前川千帆は関西美術院で浅井忠、鹿子木孟郎に学んだ。浅井忠は、夏目漱石『三四郎』の深見画伯のモデルといわれる洋画家。津田青楓も浅井、鹿子木の教え子である。漱石の周辺、面白そうな画家がけっこういる。

 鹿子木孟郎は「津の停車場」などの作品で知られる洋画家でパノラマ地図の吉田初三郎の恩師でもある。鹿子木は三重県尋常中学校(現在の津高校)の図画の先生もしていたことがある。

 晩年、前川千帆は杉並区荻窪二丁目に住んでいたこともある。

 バラバラに買った図録が年譜の中でつながる。自分は絵が好きというより、図録の年譜が好きなのかもしれない。

 今週、荻窪を二度散策していた。古書ワルツの前から青梅街道に向かう道(ラーメン二郎荻窪店などがある)はドコモタワーがよく見える。高円寺は駅のホーム以外、ドコモタワーが見えるところが少ない。

 ビーンズ阿佐ケ谷のカルディ。気に入っていたさぬきシセイの乾麺(細めのうどん)は売ってなかった。
 乾麺でいえば、金トビの名古屋きしめん、みうら食品の日本そばと中華そばも常備している。いずれも多めに茹でて冷凍している。