ときどきひとりごとをいう。だいたいそういうときは調子がよくない。
いちばんよくいうひとりごとは「まいったなあ」と「むずかしいなあ」で、このふたつのコトバがおもわず口から出るようなときは要注意である。
しかし要注意といっても、なにをどう注意すればいいのか。それがむずかしい、まいったなあ。
まあそういうときはなにはなくとも散歩と掃除である。
家の中にいると気がめいる。気がめいっていると外に出る気がしない。それでも外に出たほうがいいようだ。
食材や日用雑貨を買いに行くだけでもいい。行きつけの喫茶店にコーヒーを飲みにいってもいい。
気がめいっているときは寝つきがわるい。逆に歩いて歩いて疲れてメシを食ってぐっすり寝ればたいてい気は晴れる。
からだは単純である。その単純さはけっこうありがたい。
散歩のときは、ときどき空を見るようにする。晴れでもくもりでも雨でも夜でも空を見る。
「そんな日々、私はなぜか空ばかり見ていた。ぼんやりと空を眺めていると、頭の中で、きつくこんがらがっていた糸が、かすかにユルユルとほどけて行くようだった。かじかんでいた心が空の向こうにフラフラとさまよい出て、広がって行くようだった」
(「空を見る人」中野翠/山村修著『気晴らしの発見』新潮文庫の解説より)
上を向いて歩くのは涙をこぼさないためだけではない。
せまい部屋の中にいると、しらずしらずのうちに窮屈な気持になる。窓の外を見ても、道を歩いていても、都会だと建物に囲まれて遠くを見ることができない。だから空を見たくなる。
ほんとうは川とか海とか山も見たい。昔からある、古いものが見たい。でも都会ではなかなかそれができない。
家にいるときも、なんでもいいからからだを動かす。それにはやっぱり掃除である。
まず台所。皿やコップを洗う。ガス台を洗う。冷蔵庫の中を整理する。洗濯物がたまっていたら洗濯する。万年床になりがちな人はいちど布団をあげてみるのもいい。
いろんなところを拭いて、いろんなものを捨てる。まず身のまわりからきれいにする。
「まいったなあ」は前からよくいっていたのだが、「むずかしいなあ」というのは、むかし壁の薄いアパートに住んでいたとき、隣の住人のひとりごとだった。その人はイラストの仕事をしていて、深夜、ふかいため息とともに「あーあ、むずかしい」という声がよく聞こえてきた。いつの間にかそのひとりごとがうつってしまったのである。
むずかしいから、わからない。むずかしいから、気がめいる。逆にかんがえると、簡単にすればいいのである。むずかしくかんがえなければいいのである。
掃除にしても、簡単に片づくなら、気がめいらない。でもそうはいかないから、気がめいる。掃除が苦手な人はどこから手をつけていいのかわからない。
部屋は片づけても片づけてもすぐ散らかる。ふいてもふいてもほこりがたまる。洗っても洗っても洗濯物がふえる。
いろいろかんがえると、「日頃の行い」に尽きる。しかし「日頃の行い」はすぐには改められない。だから途方にくれる。
仕事もそうだ。片づけても片づけても次の仕事がやってきて、なかなか区切りがつかない。
あんまり予定をつめこみすぎてはいけない。
気がめいる話題になってしまった。
銭湯はいいね。めんどうなときはシャワーだけでもいい。
わたしはやっていないけど、水泳がいいという話もよく聞く。からだも疲れるし、泳いでいるときは、余計なことをかんがえなくてすむ。なんとなく、わかるような気がする。「余計なことをかんがえるな」といわれてもかんがえてしまう。かんがえないために、からだを動かす。歩いたり、ときどき立ち止まって、空を見たり、遠くを見たりする。
かんがえごとも、ときどき整理整頓する。
「そのことをかんがえるのは、まかせたよ」とおもえる作家に会うと、わたしはすごくうれしくなる。