2011/04/10

ババを握りしめないで

 色川武大の文章が読みたくなって、『いずれ我が身も』(中公文庫)をぱらぱらめくっていたら、「ババを握りしめないで」と題するエッセイのところで目が止まった。

「どうも、何かありそうですね——」
「何かありそうというと、地震——?」

《特に政治家。
 必死になって政権を奪い合っているようだが、ドシーンと来たらどうするつもりなんだろう。不時のことに直面してうまく対応できる能力など人間にないといえばそれまでだが、そういう不安すら忘れてしまっているように見えるが如何なものか》

《弱い奴が総理になるなんていうのは、大変おそろしいことだ。そいつが総理になったとたんに、すべてがツカなくなってしまって、国民はもちろん、彼自身も大苦しみの末に斃れるなんということにならなければいい》

 もちろん、今の話ではない。
 色川武大は一九八九年四月十日、六十歳で亡くなっている。

《天災であれ、経済変動であれ、どうやって身を処したらいいかわからないが、とにかく、私に投票させれば、今は防備の時、という方に賭けるだろう。
 楽しいことは、もうしばらくの間は、売り切れだぞ、と思った方がいい》

 さて、今はどうか。いや、どうかもクソもないのだが、個人の生き方として、常に、攻めるべきか守るべきかというような判断、選択がある。
 わたしは迷っているところだ。

 先日、飲み屋で知り合ったAさん(初対面)と雑談していたとき、わたしは「今年一年くらいは停滞しそうだなあ」というような愚痴をこぼしてしまった。
 すると、すかさずAさんは「五年は無理でしょう」といった。
 社会が、ではなく、自分が、である。

 二十代のときも、三十代のときも、何をやってもうまくいかず、空回りする時期があった。
 たぶん四十代にも、そういう時期がくるだろう。

 世の中の空気の変わり目というものがある。
 たぶん、今もそうだ。
 渾沌に向かうのか、安定に向かうのか。
 まだその変化を見定められていない。

 世の中がどう変わろうと、これまで通りの生き方を貫くという選択もある。
 その場合でも、あるていどは世の中と自分とのズレを自覚していないと、どこか滑稽なかんじになってしまう。

 そんなことを考えていたら、頭がこんがらがってきた。
 これからちょっと飲みに行ってくる。