日々、不安定な収入や気分や体調に左右されながら、生活している。
ただ、左右されて、ふらふらしているなりに、これまでの断片を集めると、そのときどきには見えなかったものが見えてくる。
何をしようとしているのか、どの方向に進もうとしているのか、というようなことが全体になってはじめてわかる。
文章は、断片の集積である。
断片のひとつひとつに意味がある。しかし、それが集まって全体になったときには、断片の意味が変わることがある。
同時にたったひとつでも断片に傷があれば、全体を否定されてしまうことがある。
なるべくそういうものの見方をしないようにしたいとおもっているのだが、なかなかそういうふうにはできない。
好きな作家の作品を通して読むと、自分と意見がちがったり、ちょっとおかしいとおもったりする作品や一文に出くわすことがある。
もしはじめにそういう作品を読んでいたら、その作家を好きになったかどうかわからない。
全体をとらえるためには、もうすこし断片に寛容でありたい。そうおもいつつ、つい小さなことを気にしてしまう。
全体の中のたったひとつの断片であっても、自分にとって重大な問題であれば、なおさらだ。
一読者だったときには、わたしは断片にも全体にもわりと厳しい人間だった。もともと、ちまちました性格である。
ところが、書き手の側になると、その厳しさが倍になってはね返ってくることを知った。
いい勉強にはなるが、心は痛む。でも、その痛みに慣れてはいけないともおもう。
神は細部に宿るというが、わたしの断片は、しょっちゅう言葉足らずだったり、言いすぎたりする。
長い目で見守ってほしい、すこしくらい大目に見てほしいとおもったら、自分もそうしたほうがいいことを名前も知らない人から教わった。
いまだにその教えはなかなか守れていないのだが、そのことに気づかせてくれた人には感謝している。