2015/11/21

居場所の話 その二

——渡辺京二の『無名の人生』の居場所の話の続き。
 居場所を作るにはどうするか。どんな居場所を求めているのか。そういうことをすこし考えたい。

 わたしが居場所をもっとも切実に求めていたのは中学・高校時代だ。田舎にいて、親もとにいて、金もない。ちょっと人とちがうことをすると、何かと文句をいわれる。だからずっと肩身がせまかった。
 今ならそれなりの居場所を作れるかもしれないが、十代のころはむずかしかった。

 そこにいると自分が「何もできない」「だめな人間だ」とおもう、おもわされるような場所がある。二十代に転々と仕事を移っていたとき、同じような仕事内容にもかかわらず、力の半分も出せないことがあった。
 未熟でいろいろな技術がなかったせいもあるが、それだけではなく、毎日怒られて、得意なことを否定され、苦手なことばかりやらされるような環境だと、そこにいるだけでつらくなる。からだも弱ってくる。

 合っているのか合っていないのか。その見極めはむずかしいのだが、「自分はダメだ」とおもうか、「どうにかなりそう」「なんとかなるかも」とおもえるか。
 大雑把だけど、自分の判断基準はそんなかんじだった。
 あきらかに自分には合わない仕事や人間関係はある。共同作業よりもひとりで地道にこつこつやるほうが向いている人もいる。
 昔のわたしは、仕事ができないのに屁理屈ばかりこねているからよく怒られた。でも仕事ができなかった理由の半分くらいは、職場との相性がわるかったからだとおもっている。

 渡辺京二+津田塾大学三砂ちづるゼミ著『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(文春文庫)の「はみだしものでかまわない」で、ちょっと生きにくさを抱えた人がどうするかという話が出てくる。

《僕らに開かれているのは、やはり小さいところでいいから、自分たちが生きられる場所を作っていく。教育だとか、障害者の問題とか、いろいろ出てきましたけれども、大きな制度作りということは一面では必要だとしても、一番決め手になるのは、自分自身が周りの人といっしょに、お互いに力になりあえるような、そういう生きる場所を作っていくということだと思うんですね》

(……続く)