一日の大半は、古本を読んだり、酒を飲んだりしている。
自分をとりまいている状況がもっと逼迫してきたら、今みたいな生活は送れなくなるだろう。そうならないために戦うべきなのか。
どんな世の中になっても、のんびりぼんやりしながら、だらだら暮らしたい。そういう戦い方もあるのではないか。
二十代前半のわたしはいわゆる「社会派」だった。仕事を干され、生活が苦しくなり、それどころではなくなった。
当時、環境問題の分野では「持続可能性(英:sustainability)」という言葉がキーワードだった。今でもよくつかわれている言葉である。わたしは生活においても思想においても、持続できるスタンスを構築しなければならないと考えていた。
強靭な肉体や精神力を前提とした生き方はできない。
人間、病気もするし、年もとる。
だから、弱っているときの自分を想定して、仕事や遊びの予定を組む。
しかし続けることばかり考えていると、安全策ばかり選んでしまう。今まで通り、いつも通りの暮らしを維持したい。そうおもっているうちに、大きな変革を望まなくなる。
少々嫌なことがあっても我慢する。「持続可能」な生活のためには忍耐と寛容が必須である。
真面目に穏やかに暮らしているうちに、すこしずつだけど、仕事が長続きするようになった。
その結果、「保守化」する。すぐ守りに入ってしまう。そういう落とし穴もある。
そのあたりのバランスはすごくむずかしい。