2016/09/18

残りの一分

 昨年の『文藝春秋SPECIAL』(二〇一五年冬)を読んでいたら、渡辺京二さんの「二つに割かれる日本人」というインタビューが収録されていた。

《長い間、人間は天下国家に理想を求めてきましたが、これもうまくいかなかった。人間が理想社会を作ろうとすると、どうしても邪魔になる奴は殺せ、収容所に入れろ、ということになるからです》

《政治とはせいぜい人々の利害を調整して、一番害が少ないように妥協するものです。それ以上のものを求めるのは間違っているんですよ》

 二十代のころ、わたしはアナキズム(無政府個人主義)を理想としてきたが、今のわたしは渡辺さんの政治観にかなり近い。
 いうなれば、紆余曲折を経て、穏健主義者になった。
 まずは自分が食っていくこと。健康であること。それから余力があったら、世の中のことを考えたい。
 社会の変革には時間がかかる。そのあいだも家賃や光熱費を払う必要がある。本や酒だって、ただではない。

《僕はこれまで生きてきて、困ったなと思ったこと、解決しなければならない問題の九割九分までは、金で片付くことでした。ところが、残りの一分が片付かない。
 その残りの一分、人としての生きがいは、やっぱり人との関わりの中にしかないんです。女、家族の次には、仲間です。ともに仕事した、一緒に遊んだ、近くに暮らした人たちに、ちゃんと取るべき態度が取れたら、死ぬときに満足感が持てるのではないか》

「近くに暮らした人たちに、ちゃんと取るべき態度」はどんな態度なのか。それを見つけ、実践することは今後の課題にしたい。