2025/08/17

夏の読書

 年をとると、のどの渇きが鈍くなる。人体は約六十%が水分だと何かで読んだ。年とともに体の水分量は減少する傾向がある。のどの渇きの自覚が薄れるのはそのせいか。

 八十二歳の母は、夏、エアコンをほとんどつけない。わたしも夏に冷房なしでも眠れる。三十代くらいのころと比べて、暑さや寒さにたいする耐性がついたのかと考えていたのだが、単に鈍感になった可能性が高い。

 東京の銭湯のお湯は熱い。老人は平気な顔で入っている。以前は慣れの問題だろうと考えていたのだが、年をとるにつれ、わたしも熱い湯が平気になった(温泉はぬるいほうが好み)。熱い冷たいだけでなく、なんとなく痛みの感じ方も鈍くなっているかもしれない。

 八月十五日、部屋の片づけをしながら高校野球を見る。ファームのヤクルトの試合をチェックする。午後六時すぎ、阿佐ケ谷を散歩する。ブタクサの花粉が飛んでいる気がする。おなかすいたで小ぶりのタマネギ、エクランのパン(サンフラワー)、けやき公園の屋上から夜景を見る。ここから新宿方面を眺めるのが楽しい。渋谷方面に光る高層ビルを見つける。建物の名前はわからない。鳥瞰図に興味を持って以来、いろんな場所から遠くを見るようになった。
 行き詰まりそうになったら視界を変える。広く見渡せる場所に移動する。

 ニンジンをピーラーで削り、小分けにして冷凍。タマネギも刻んで冷凍。ニンジン、キャベツ、もやしをしょうがとだし酢で炒めて常備菜を作り、冷凍する。

 散歩野球家事読書の日々。穏やかなり。

 山本夏彦が小泉八雲の話を書いていた記憶があるのだが、どの本だったか。本棚から『「戦前」という時代』(文春文庫、一九九一年)を取り出す。「明治の語彙」をパラパラ読む。

《昔の女は芸術家になろうと歌をよんだのではない。子規は古今は字句の遊戯にすぎないというが、字句の遊戯のどこがいけないのだろう。歌枕をたずねるのがどこがいけないのだろう。ラフカジオ・ハーンは若くして死んだ明治二十年代の婦人の一生を書いている。主人に当る人は月給十円にたりない下級吏員である。夫婦は三畳二間の家に住み、妻は三人の子を生むが次々と死なれてやがて自分も死ぬという薄倖の人である。この薄給のなかで二人は義理をはたそうと千々に心をくだき、そして立派にはたしている。どんな些細な親切にも感謝の念をいだいている。嬉しいにつけ悲しいにつけ歌をよんでいる》

 それらの歌をハーンは英語に訳した。最近、こういう話が身にしみる。「歌枕をたずねるのがどこがいけないのだろう」という一文は忘れていた。興味がないときに読んでも記憶に残らない。街道の研究をはじめて、歌枕に興味を持ち、旅先で句碑や歌碑を書き写すようになった。旅に行けないときは古い地図を見て歌枕の地を探す。楽しいわけではないが、飽きない。

 夜、高円寺散歩。純情商店街の提灯が明るくていい。