庄野潤三著『世をへだてて』(講談社文芸文庫、二〇二一年)を読む。冒頭の「夏の重荷」の初出は『文學界』一九八六年七月(に発表……と同文庫の年譜にある)。庄野潤三は一九二一年二月生まれ、六十五歳のときの随筆である。「夏の重荷」は、福原麟太郎著『命なりけり』(文藝春秋新社、一九五七年)所収の「秋来ぬと」の話からはじまる。
ここ数年、福原麟太郎の話を何度となく書いているが、『世をへだてて』を読んだことも関係している。
福原が六十歳で心臓の発作で入院、病院で五ヶ月過ごした。庄野潤三も「六十の坂を越したところで突然予期しない病気にかかって入院加療を余儀なくされた」。予期しない病気は脳内出血だった。
福原と同じくらいの年齢のときに庄野も入院し、「秋来ぬと」を「一層身近な気持で読み、励ましを受けるようになった」。庄野は福原の随筆を読みながら「手探りで健康と生活の立て直し」を計ろうとする。
わたしは今年の秋で五十六歳になる。「健康と生活の立て直し」か。中年以降、大病はしていないが、やや不調が続いている。もはやそれが常態なのだと認めざるをえない。
福原が「秋来ぬと」を書いた夏の話。
《八月七日。三十三度九分の暑さと新聞に出ていたから、郊外の私の家でも三十二度には昇ったであろう》
福原が狭心症で入院したのは一九六五年。「秋来ぬと」の文中「私は去年の七月から心臓病をわずらって」とあるから「八月七日」は一九六六年の立秋。この年、七月の終わりから急に暑くなった。
《この暑さは、結局、十日続いた。翌九日からは、思いがけず、すこし曇って来て、湿度も上らず、久しぶりに息をついた》
昭和の昔、立秋(八月七日ごろ)を過ぎると、徐々に涼しくなりはじめた。今はちがう。夏が終わりそうな気配がまったくない。気温三十三度九分なら、ちょっと楽かとさえおもってしまう。
わたしはこの文章を八月七日の夜から書きはじめ、九日の昼になった。昨日の夜、すこし散歩をしようとおもっていたのだが、高校野球(綾羽対高知中央)の試合が続いていて最後まで見た。九回表二アウトから相手チームのエラーで綾羽が同点に追いついた。さらに九回裏のピンチを乗り切り、延長十回のタイブレークで勝敗を決した。午後十時四十六分の試合決着は高校野球では“史上最遅”と知る。
野球を見ていると時間が溶ける。
福原麟太郎、庄野潤三の二人も野球好きだった。
庄野潤三著『山の上に憩いあり』(新潮社、一九八四年)に福原麟太郎との「対談 瑣末事の文学」(一九七五年)が収録されている。
福原は午後六時にプロ野球のナイターがはじまると最初の一時間はラジオを聴き、午後七時からテレビで見る。庄野もまったく同じことをしていると対談で語っている。
この対談で印象に残っているのは福原の次の言葉である。
《福原 わたしはね、もっと若いときは、十二時から二時まで勉強していたんです。(中略)そんなことをやっていましたが、朝はだめなんです。朝した仕事というのはほとんどありません。(笑)低血圧的なんですよね。低血圧の人というのは、午前中は頭が働かないんじゃなですか》
わたしも朝が弱い。というか、だいたい寝ている。朝寝昼起だが、昼も頭が働かない。夜が近づくにつれ元気になる。昨日今日の話ではなく、子どものころからそうだった。
福原麟太郎は入院して以降、「蒸留したお酒ならばいい」と医者にいわれ、ウイスキーを飲んでいた。一週間でボトル一本。「瑣末事」なのだが、わたしはこういう話を読むのが好きである。
二十代三十代のころは本を読むことで自分を変えたいという気持があった。五十代半ばを過ぎると「こんな人生だけど、これでいいや」とおもえるような文章が読みたくなる。
自己批判とまではいかなくても自己検討は体力を要する。年をとり、自分の判断能力にたいする懐疑をなくす。それでダメになった先人をたくさん見てきた。
知りたいこと、調べたいことがあちこちにバラけて収拾がつかなくなる。