2026/08/28

夢花火

 平日木曜夕方、西部古書会館(初日)。古書ことばも参加していて、面白い棚を見ることができた。ガレージや館内にレコードやCDも並んでいた。井上陽水『少年時代』(一九九〇年)の8センチシングル(短冊CD)を買う。百円。ジャケットは藤子不二雄Ⓐの同名漫画『少年時代』。表側にバーコードが入っている。井上陽水『少年時代』のシングルCDは二〇〇八年に再発盤(12センチ)も出ている。
 ほかに津田正四著『福田清人と「文芸広場」』(かたりべ叢書、宮本企画、一九九〇年)など。文庫サイズの叢書。同叢書の「東京暮し六十年」を読む。福田清人は学生時代に東中野(寮)、それから北新宿三丁目(下宿)、世田谷代田(下宿)、東北沢(下宿)、雑司谷(借家)、目白(借家)、豊島区長崎南町(借家)、杉並区和田本町(借家)、杉並区成宗(自宅)と移り住んでいる。
 東中野時代の話に「ロッホ」(後に「ユーカリ」と改名)という喫茶店と酒場を兼ねた店が出てくる。「ロッホ」は「穴」という意味らしい。

《店の娘のヨッちゃんは美人という訳ではないが奔放でテーブルの上に立って「どん底」の唄などを歌っていた。店には林房雄、村上知義、細田民樹、浜本浩、新居格などが現れていた》(「東京暮し六十年」/『文芸広場』一九八五年十二月号、八六年二、三月号より)

 福田清人は一九〇四年生まれ。東中野の学寮から「ロッホ」に通っていたのは一九二〇年代半ばあたりか。当時の「ヨッちゃん」は文壇の有名人だった。

 一九三五年、杉並区成宗(現・成田西)に引っ越した。成宗から成田西に名前が変わったのは一九六九年十月。成田西には成宗城跡がある(鎌倉街道も通っている)。もより駅は東京メトロ丸ノ内線南阿佐ケ谷駅、もしくは京王井の頭線浜田山駅である。

 上林暁の随筆「荻窪の古本市」(山本善行編『文と本と旅と 上林曉精選随筆集』中公文庫、二〇二二年)で上林が最初に会った本好きが福田清人である。

 成宗城がいつできたのか正確な年代はわからない。鎌倉時代からあったという伝承もあるが、築城は室町時代以降という説が有力のようだ。

(追記 その一)わたしが東中野の「ヨッちゃん」のことを知ったのは吉行淳之介著『懐かしい人たち』(ちくま文庫、二〇〇七年)の「三島事件当日の午後」である。

《いまではわが国のジャズ界の母親役のようになっている水島早苗女史は、昭和初年には当時の代表的なモダン・ガール(モガと略して呼ばれていた)で、「ユーカリのヨッちゃん」として有名だった。(中略)このヨッちゃんと私の若死した父親が親しくしていて、小学生のころからその名前を聞いていた》 

(追記 その二)東中野の「ロッホ」。『福田清人と「文芸広場」』に「ロシア語で『穴』を意味すると聞いた」とあり、当初、わたしもそう書いた。そのあと知り合いに「ロッホ」はドイツ語、もしくはアイルランド英語ではないかと教えてもらった。さらにイディッシュ語説も。

2026/08/24

夏の日記

 土曜日、午前中に西部古書会館。『万葉集』関係の本と街道の本を買う。夕方、雨と雷。日課の散歩(晴れの日一万歩、雨の日五千歩)がおもうようにできない。
 深夜二時、茨城県南部で地震(最大震度五弱)。杉並区も震度四。長い揺れ。本棚の上に積んでいた本が落ちてきた。

 夏の甲子園終わる。今大会、真剣に見たのは八月十五日の三重高校と履正社高校の試合だけ。他の試合は仕事や家事の合間にちらちら眺める感じだった。年をとると野球を見るのも体力がいる。三重高校の校歌に「北は城趾の鈴の屋を」という歌詞がある。「鈴の屋」は本居宣長の書斎である。宣長は鈴の音色が好きで「鈴せんせい」と呼ばれていた。
 鈴の音を聞くと頭の疲れがとれる――宣長はそう信じていた。

 わたしは公園などの水景施設の水の音を聞くのが好きになった。なんとなく頭がすっきりする。
 今から二十年くらい前、三十代半ば、スポーツ心理学の本を読み耽っていた時期がある。怒り、焦り、不安などの感情は自分の脳が作り出しているにすぎない。歩いたり、樹木を見たり、水の音を聞いたりしているうちに、ささくれだった気分がすこしずつ治ってくる。

 深夜の地震で崩れた本の中に常盤新平著『うつむきながら、とぼとぼと』(読売新聞社、一九九二年)があった。この本に「夏の日記」が入っている。
 常盤新平は一九三一年三月生まれ。日記の冒頭付近に「この夏も暑くてかなわないし、証券会社、銀行のスキャンダルがぞくぞくと明るみに出て、いっそううっとうしい」とある。

 証券会社の巨額の損失補填が発覚し、大きく報じられたのは一九九一年の夏である。同じころ、尾上縫(おのうえぬい)事件をはじめ、銀行でも巨額の架空預金証書事件があった。この日記を書いていたころの常盤新平は六十歳。

 還暦になったばかりの常盤新平は一橋診療所で睡眠剤を処方してもらっている(日本とアメリカの行き来による時差ぼけの解消のため)。同診療所で血糖値を測る。いつもより高い。「美人の看護婦さん」から「なるべく水分をとってどんどん尿を出すようにしなさい」「ただし、ビールはいけませんよ」といわれる。

《ニューヨークから帰って、酒はほとんど飲んでいない。酒を飲むにも体力のいる年齢である》

 前にこの本を読んだのはいつだったか。「酒を飲むにも体力のいる年齢である」という文章はまったく覚えてなかった。
 今、この言葉が身にしみる。本を読むのも体力がいる。
 酒も弱くなった。昨今のプロ野球の中継ぎ投手のように連投は二日まで。回跨ぎ(ハシゴ酒)はなるべくしないようになった。
 今のところ加齢による体力の低下は節酒でどうにかカバーしている。そのカバーも効かなくなってきたら、どうするか。
 あらためて『うつむきながら、とぼとぼと』はいい題だなとおもった。

2026/08/22

老いの記

 寺田寅彦や福原麟太郎の随筆を読んでいると、五十代のころの文章に「老人」感が滲み出ている。
 今の時代、五十代は若い……とはいえないが、老人扱いはされない。でも孫がいてもおかしくない年齢である。そのあたりの老いと自意識のズレをどうにか調整したい。

 入手難といわれるような古書を格安で買えたとしても、その喜びは長く続かない。買って満足して読まないことがよくある。
 だとしたら古書価なんて気にせず、本当に読みたい本だけを買ったほうがいいのではないか。ところが今の自分は何が読みたいのか、買ってみないとわからない。その結果、手当たりしだいに買ってしまい、乱読もしくは積読することになる。何か一つのテーマを掘り下げるような読書ができない。

 五十代後半、自分の残り時間について考えない日はない。自業自得とはいえ、自由につかえる時間はあっという間に消えてしまう。

 最近、自省したことについて、いくつか書き残しておく。

・酒の席で仕事の話はしない(わたしは酔うと言葉がきつくなる)。とくに気のりしない仕事を断るとき、きつくなる。やんわりと断っても食い下がってくる相手にたいし、そうなる傾向がある。
・気分転換にいつもとちがう味噌を買い、おもっていた味と似ても似つかず後悔する。味噌は常に同じものを買ったほうがよい。
・時代の巡り合わせもそうだが、人間関係もかなりの割合で運に左右される。よい方向に進むこともあれば、その逆もある。不確定な事象を避けてばかりいるとよいことも起こらない。しかし運に振り回されていると自分を見失う。塩梅が大事である。それがむずかしい。
・今の自分の関心事(街道、歌枕、万葉集)について喋りすぎないようにしたい。話はじめると暴走してしまう。何が面白くて何が面白くないかは人それぞれであって、ようするに自分の話ばかりしてはいけない。頭ではわかっている。酒がいけない。

 昔から老人の話は長くてくどいといわれているが、わたしもそうなっている。気をつけていてもそうなる。
 人の話を楽しそうに聞いて、自分の話は聞かれたときだけ答える。そういう人もいる。

2026/08/17

戦中派と缶チューハイ

 二〇一二年、夏。素敵なはみだし者たちの公園[ワールド]、缶チューハイ片手の「私」。それは確かに心を震わす夏だった。(本作、帯文より)

8月19日(水)にReadin Writin BOOK STOREさんで、タケダ2000GTさんの『戦中派と缶チューハイ』(虹霓社)の刊行記念&ミニライブのイベントを開催します。

18:30開場/19:00開演
参加費:2,000円(会場・オンラインとも)

ゲストはわたし(荻原魚雷)、南陀楼綾繁さん(ライター・編集者)、西口徹さん(編集者)。進行は古本と肴マーブル蓑田沙希さん。

予約は《日本一走る本屋》Readin Writin BOOK STORE


Readin Writin BOOK STORE
〒111-0042
東京都台東区寿2-4-7(東京メトロ銀座線田原町駅 徒歩2分)

2026/08/12

道のながて

 東京に帰ってきた途端、ブタクサの花粉症になる。日曜日くらいからひどい。目がかゆい。九州にいたときは何ともなかったのに。東京はブタクサが減っていると聞いたが、また増えたのだろうか。あと昔は八月の終わりごろだったが、近年、飛散の時期が早くなっている。昨日、雨が降って楽になった。漢方が効いたのか。

 八月六日(木)、車で鳥栖駅まで。増岡さんに駅近くのアイスキャンデーの店などがある小さな路地を案内してもらう。二日前も通ったのに気づかなった。
 路地の奥にはスナックが何軒かあった。鳥栖駅のうどんもうまいらしい。
 鳥栖は毎年「とす長崎街道まつり」を開催している(道でポスターを見た)。

 すこし前に川上茂治著『佐賀の街道』(ふるさと社、一九八二年)という街道本を入手していた。郷土史家の街道文献はすごい。歩いている時間がちがう。この本を読み、中原宿を通りかかったときに寄った旅籠の名前を思い出す。
 ひとり旅のときはメモをとりながら歩くのだが、今回はしなかった。なりゆきにまかせた。

 鳥栖駅周辺、平日昼間に歩いている人や自転車に乗っている人をよく見かけた。町の大きさが徒歩生活に適しているのかもしれない。

 このあたりは長崎街道の轟木宿、田代宿の二つの宿場がある。近年の町おこしは「ウォーカブル(歩きたくなる/歩きやすい)」という言葉が鍵になっている。歩く人が増えれば、町に活気が出る。わたしの郷里もそうなのだが、車社会になっても宿場町周辺は徒歩の文化が残っているところが多い。

 鳥栖駅から博多駅に行き、新大阪駅までの新幹線(自由席)の切符を買う。それから西鉄の薬院駅に行く。同駅もよりに中野さんの恩師の店のcafe oticotiがある。
 oticotiに行く途中、中野さんはコンビニにこもり、店で会う約束をした新聞社のSさんに渡すための映画の資料を作っている。「待ち合わせの時間に遅れそう」とおもいながらも、中野さんがあまりにも真剣だったので声をかけそびれる。
 Sさんは店の外で待っていた。Sさんと中野さんは西鉄ライオンズの話で盛り上がっていた。Sさん、音楽もすごく詳しかった。
 帰りに「をちこちストーリーズ 遠近話」などの小冊子をもらう。

「遠近話」の「14」に「oticoti」の由来が記されていた。

《漢字で「遠近」と書いて〈をちこち〉と読むんです。お近くの方にはもちろん、遠方からお越しの方にもくつろいでもらえる場所になったらいいな、と思ってこの名をつけました》

『源氏物語』や『更級日記』などの古典に出てくる言葉らしい。わたしは東海圏の出身なので「をちこち」と聞くと両口屋是清の和菓子のコマーシャルが頭に浮かんでしまう。

 この日、わたしは三重県、中野さんは山口県へ。新大阪駅に午後五時台に着き、鶴橋駅で近鉄に乗り換え。鶴橋駅から白子駅までの特急券を買ったら津駅まで特急ひのとりだった。ひのとり初乗車。鶴橋駅を出ると津駅まで止まらない。一時間十六分。津駅のコンビニでビールを買い、郷里の家へ。

 七日(金)、午前十一時半、母の弟のトシおじさんが来る。昼ごはんの前に鈴鹿市一ノ宮町にある都波岐奈加等(つばきなかと)神社に寄ってもらう。
 そのあと鼓ヶ浦駅近くのうどん屋で昼食をすませ、近鉄白子駅から名古屋駅。名古屋駅で名鉄に乗り換え豊橋駅。再びJR。浜松駅から途中下車せず熱海駅まで行く。熱海駅行きの電車、席には座れたが、けっこう混んでいた。

 行きと同じく熱海第一ビルへ。家康の湯(足湯)の時間は終わっていた。熱海駅から小田原駅、小田急で新宿駅まで。家に着いたのは午後八時すぎ。深夜、ペリカン時代で中野さんと飲んだ。

2026/08/09

佐賀へ

 自分がこの世にいられる時間はあとどのくらいなのか。時折そんなことを考える。生きているうちにこれだけはやっておきたい――年々そういう欲が薄れてきている。そのかわりといっては何だが、日常を深く理解したいという気持が強くなっている。
 今回の旅行もそうだった。

 八月四日(火)、鳥栖駅から再び鹿児島本線。この日泊まる予定の増岡謙一郎さんの佐賀の家も同じ沿線にある。長崎街道も近い。

 中野さんは増岡さんが博多駅から乗った電車の時間を推理し、駅で待ちぶせしようとしていた。ところが、すでに増岡さんは家のもより駅に着いている。そのころ、われわれは鳥栖の長崎街道を散策中だった。

 増岡さんが鳥栖駅に戻り、合流することになった。行きも帰りも鳥栖駅前のローソンでだらだらした。五十代のおっさん二人がコンビニ前に座り込み、どうでもいい話をしている。

 今回の旅、佐賀がすごく気に入った。その町が好きになるのは人のおかげでもある。どんな話をしたか、ほとんど忘れてしまったが、電車や車の移動も楽しかった。

 夕方、増岡家に到着する。玄関に犬がいる。おとなしい犬。晩ごはんとビール。テレビのニュースでジュンク堂福岡店オープンのニュースが流れる。わたしが棚の前で立ち読みしている姿が映り、なぜか増岡さんが大はしゃぎする。東の空に赤い月が見えた。庭で花火をした(中野さんがコンビニで買っていた)。
 汗だくの衣類を洗濯してもらい、旅館のような和室で寝た。

 翌朝、増岡さんの母といっしょに犬の散歩をする。急傾斜の坂道をどんどん歩く。北の方角に脊振(せふり)山系の山々が見える。郷里の近鉄鈴鹿線沿線の風景とちょっと似ている。

 この日は午前中から町の施設をいろいろ案内してもらう。主題歌を歌ったミュージシャンの地元ということで中野さんの映画の宣伝をする。

 そのあと増岡さんの運転する車で長崎街道の神埼宿へ。家から近いと聞いていたが、猛暑の中、徒歩で行くのは厳しかったとおもう。
 途中、吉野ヶ里も通った。

 九年庵は春と秋、年二回一般公開される。紅葉の名勝としても知られる。そのすぐ近くに仁比山(にいやま)神社がある。七二九(天平元)年創始の神社。山上憶良、大伴旅人が大宰府にいたころにできた神社である。境内の至るところに猿の石造物がある。酒の神も祀っている。

 旅行中、「仁比山神社」の名前を忘れてしまい、何度となく「なんとか山神社で……」といっていたら、中野さんに「魚雷さんが行きたがってた神社なのに、なんで名前が出てこないんですか」とつっこまれる。

 言い訳すると、鳥居をくぐった瞬間から心が奈良時代に飛んでいたのである。奈良時代はまだ仁比山神社という名前ではなかった。もともと「松尾明神」や「山王社」と呼ばれていて、地元では「山王さん」の愛称で知られている。でも単に思い出せなかった。

 神埼宿あたりの窯元にも行ったのだが、わたしは車の中で寝ていた(すこしだけ見たが、寝起きの頭だったせいか、あまり覚えていない)。行きに寄ったのか帰りに寄ったのかすら覚束ない。蕎麦屋にも行った。それは覚えている。

 夜は山茶花(さざんか)の湯という温泉施設に行った。夜景が最高だった。昼は長崎の雲仙のほうまで見えるらしい。

 今回の旅でおもったのは、わたしと中野さんとでは一日の活動量がまったくちがうということ。わたしは食後一時間くらいは体が動かない。頭も回らない。家ではずっと横になっている。中野さんは食べてすぐ俊敏に動く。たぶんわたしの五倍は動いている。そして動くたびにものを落とす。わたしは中野さんに「ぽろぽろ星人」というあだ名をつけた。

 一人で仕事をしたり、旅行したりしていると、なかなか気づけないことにいろいろ気づくことができた。
 この先の自分が変わるかといえば、変わらないだろう。

(……続く) 

2026/08/08

万葉の道

 急遽、九州に行くことになったのだが、とくに計画は立ててなかった。
 今、『万葉集』にはまっているので、奈良時代、山上憶良と大伴旅人がいた太宰府に行きたい。あと佐賀に行ったら、長崎街道の神埼宿にある九年庵のあたりを散策したい。
 旅行中の希望はそのくらい。一番の希望はだらだらしたい——である。
 結果、望みはすべてかなった。

 中洲からタクシーに乗り、降りた場所は戦国武将の名前の焼き鳥屋だった。わたしは中野さんの恩師が来ること以外、何も知らない。
 店に入ると、中野さんの野球部時代の仲間がいる。
 中野さんから恩師のW先生は文学好きということは聞いていた。W先生に『万葉集』の話をすると、中野さんの後輩で詠人舎の末﨑光裕さんから上野誠著『筑紫万葉 恋ひごころ』(西日本新聞社、二〇一七年)を手渡される。

 旅行前、上野誠著『こころをよむ 万葉びと、その生と死と』(NHK出版、二〇二四年)を読んでいて、『万葉集』に興味を持つ前から『万葉学者、墓をしまい母を送る』(講談社文庫、二〇二二年。単行本は二〇二〇年)を愛読していた。末﨑さんは『筑紫万葉 恋ひごころ』の担当者だったそうだ。あと佐賀と長崎のフリーマガジン『SとN』の編集者でもある。

 最初、中野さんのサプライズかなとおもったが、中野さんは自分の後輩が『万葉集』の本を編集していたことを知らなかったらしい。

 ふだんは飲み屋で山上憶良や大伴旅人、街道の話はしないように気をつけている。この日は暴走した。
 もともと『万葉集』に関しては和歌より地理——歌枕に興味があった(鈴鹿の歌もある)。飛鳥、奈良時代は頻繁に遷都している(そのたびに東海道の経路もすこし変わる)。

 近所の図書館で週二冊くらいのペースで飛鳥、奈良時代の本を借りるようになり、『万葉集』関係の本を読みはじめ、今に至っている。
『万葉集』を読んでいるうちに奈良の和歌より、大宰府(太宰府)の和歌のほうが人間味があって面白いとおもうようになった。大伴旅人の酒讃歌も大宰府時代の歌である。
 人生の四苦八苦は万葉の時代も今もそれほど変わらない。

 当時の奈良は仏教勢力が強まっていた時期だったから、都から離れたほうが気楽にのびのびできたのではないか。しょっちゅう宴会してるし。都にいると都のおかしさがわからなくなる。いつの時代もそういうところは変わらない気がする。

 ここ数年、梅が好きになった。太宰府も梅が有名だ。とっ散らかった好奇心がすこしずつ重なったり、つながったりする。

 翌朝、太宰府行きの前に天神のPRONTO(三階建て)に寄った。中野さんは朝食、わたしはアイスコーヒー。PRONTOの三階、寛げた。コーヒーも好きな味だった(自分の記憶の味とちょっとちがっていた)。都内のPRONTOには何年も行ってなかった。仕事の連絡などをいろいろしていたら、以前、梅崎春生の件で電話取材を受けた福岡の新聞社のSさんからメールが届いている(一度も会ったことがない。わたしが福岡にいることも知らせていない)。「今、天神にいるんですよ」と返信したら、この日、ジュンク堂書店福岡店がオープンすることを教えてもらった。
 中野さんとジュンク堂書店福岡店に行く。入口を間違える。そのあと太宰府へ。移動ルートはすべて中野さんに任せて電車に乗る。

 西鉄二日市駅で西鉄太宰府線に乗り換え、太宰府へ。この日も暑かった。意識がモーロー。梅ヶ枝餅の店で冷たい抹茶と梅ヶ枝餅。体力がすこし回復。中野さんはずっと元気だった。わたしのあまりの動かなさに呆れていた。
 旅行前、太宰府は高校の修学旅行で来たことがあるとおもっていたが、街並の記憶がまったくない。何も覚えていない。来ていないかもしれない。

 高校の修学旅行は九州の福岡、長崎、熊本を回った。四十年前の話である。長崎と熊本は覚えている。太宰府を回る組、回らない組があったのだろうか。それともバスで寝ていたのか。太宰府天満宮もはじめた見た……ような気がする。

 中野さんと喋っていると、いつも記憶力(ディテールが無駄に細かい)に感心する。脳の構造は不思議である。

 太宰府のあと、西鉄の二日市駅。そこからJR鹿児島本線の二日市駅まで歩く。だいたい一キロ。途中の商店街がよかった。JRと私鉄で同じ名前でちょっと離れている駅を歩くのは楽しい。

 JR二日市駅から鳥栖駅。駅構内の通路で鉄道、駅の歴史の写真を展示している。見応えがあった。

 長崎街道に興味を持ちはじめたころ、古代から鳥栖は九州の東西と南北の十字路であることを知った。
 鳥栖八坂神社に行ったが、どの道が長崎街道なのかよくわからないまま歩いていた。後から鳥栖周辺の長崎街道は曲がりが多く、複雑な経路であることを知った。

 東海道や中山道を地図を見ながら歩いていて、よく道に迷っている。街道の場合、たまたま迷って歩いた道が古道の可能性もある。

 話は変わるが、電車で九州に来てよかった。電車の中から景色を見ながら移動する。三重から福岡への移動は万葉の道とも重なっている。
 瀬戸内海は船の行き来も多かった。移動中、しばらく会っていない友人や行ってない店のことが頭をよぎった。

(……続く)

博多まで

 今年の八月でブログをはじめて二十年になった。二十年前の自分は何をしていたのか。この二十年で何がどう変わったのか。
 わたしは三十六歳から五十六歳になり、今も高円寺にいてライターをやっている。

 八月二日(日)、午前八時ごろ、駅の券売機の「おトクなきっぷ」コーナーで青春18きっぷ(3日間用)を買う。一万円。新宿駅から湘南新宿ライン、小田原駅へ。小田原〜熱海間は車窓が楽しい。熱海駅で一度途中下車。熱海駅の家康の湯(足湯)の向かいの熱海第一ビルで一休み。ファミリーマート熱海春日町店でお茶を買う。

 熱海駅からJR東海道本線に乗って適当に途中下車しながら名古屋を目指す。
 由比駅から薩埵峠を通り、興津駅。この区間も海が近い。
 大井川の手前の島田駅で途中下車して旧東海道の島田宿界隈をすこしだけ歩く。浜松駅から豊橋駅。東海道本線は舞阪駅から新居町駅の区間の車窓もいい。たぶん海の近くを走る電車が好きなのだろう。
 このあたりまで来ると名古屋は近いという気分になる。

 午後三時ごろ、名古屋駅着。地下街のエスカでスガキヤラーメンを食べ、JR関西本線で四日市駅へ。この日は大入道が名物の「大四日市まつり」だった。太鼓の音を聞きながら、近鉄四日市駅へ。駅のコンビニでビールを買って郷里鈴鹿の家に向かう。

 八十三歳の母は元気。エアコンのリモコンの電池を交換する(母はエアコン嫌い)。

 八月三日(月)、午前七時台の電車で近鉄の津駅へ。JRの津駅に乗り換え。紀勢本線で亀山駅に向かう。遠回りだが、青春18きっぷの期間中なので鈴鹿からバスで行くより安くすむ。時間はほぼ変わらない。紀勢本線に乗るのは十五年ぶりくらいか。

 亀山駅から柘植駅。次の電車が来るまで二十分以上あったので駅の外に出る。柘植は芭蕉ゆかりの余野公園、横光利一ゆかりの横光公園などもある。JR草津線で草津駅。新快速で姫路駅へ。姫路駅に着いたのは午後二時半くらい。

 この日は夕方六時に博多駅で映画『怪獣と老人』の中野伸郎監督と待ち合わせ。さすがに鈍行では間に合わない。
 姫路駅で博多駅までの新幹線の自由席の切符を買い、こだまで岡山駅。岡山駅からさくらに乗り、予定より早く着きそうだったので小倉駅で降り、新幹線の駅の構内で休憩する。中野さんに「小倉駅まで来た」とメールを送信する。わたしはスマホ、携帯電話を持っていないが、旅行中はキンドルでメールの送受信ができる。

 博多駅の待ち合わせ場所に行くと、中野さんから「新幹線の改札で待っている」とメール。博多駅、新幹線の改札が三箇所ある。困る。ひかり広場改札口で合流し、中野さんが予約した中洲のカプセルホテルへ。

 中野さんと知り合ったのは近所の飲み屋。フリーランスでテレビの仕事をしていると聞いた。一九七〇年生まれで年は一つちがい。中野さんの高校時代の恩師(軟式野球部の監督)が福岡で喫茶店をやっていて、わたしの本を読んでいると教えてもらっていた。
 一年以上前からわたしは学生のころ福岡にいた中野さんに「長崎街道を歩きたい」といい続けていた。九州旅行の話もした。でもお互いの予定が合わず、話が進まない。

 七月末、ペリカン時代で「九州に行くのは秋にしようか」みたいな相談をしていたところ、カウンターにいた佐賀県出身の店主(映画『怪獣と老人』の主題歌を担当した増岡謙一郎さん)がわれわれの九州旅行に合わせて帰省するといい、八月三日の週なら行けるとなって、急遽、決まった。決まるときは決まる。人生はタイミングである。

 三日(月)、この日、久留米、太宰府は最高気温が四十度を超えた(福岡県の観測史上最高気温だったらしい)。
 博多駅に着いたころ、すでによれよれになっていた。

 カプセルホテルのロッカーに荷物を入れ、行き先がわからないままタクシーに乗った。

(……続く)