2024/10/23

掃除

 季節の変わり目、毎日、睡眠時間がズレる。よくあることだが、寒暖差の影響もあるとおもう。そういう体であることを前提に生活していくしかない。中年過ぎて急に運動すると足がもつれて転ぶみたいなことが、頭の働きにもあるような気がする。若いころのイメージと今の自分とのズレが、しょっちゅう起きる。記憶力が落ちた分、メモをとるようにするとか、しめきり前日は酒を飲まないとか、いろいろ試行錯誤はしているのだけど、仕事が捗らない。

 東京堂書店で新刊本のチェック。小諸そば、鳥から二個サービス中、とろろ丼とそばのセットを食う。帰りは代官町通りを歩いて四ツ谷駅まで。電車の中で佐藤正午著『佐世保で考えたこと エッセイ・コレクションⅡ 1991年-1995年』(岩波現代文庫)を読む。

 三十年前、長崎は深刻な水不足だった。なんとなくニュースで見た記憶がある。当然、ふだんは忘れているし、細かいことは最初から知らない。当時、佐世保の節水でグラスが洗えず、紙コップで酒を提供していた飲み屋があった。『佐世保で考えたこと』に書いてあった話。深夜、そんな話を高円寺の飲み屋で喋っていたら、たまたま佐世保出身の若者(二十代だとおもう)がいた。さらに佐藤正午と同じ高校に通っていたとも。

 ここ数日、ずっと仕事部屋の掃除。五十五歳になる前に一度おもいきってモノを減らしたいと考えていた。減らさないと本が買えない。本が買えないと心の平穏が保てない。だからやるしかない。ただ、昔と比べて取捨選択の反射神経が鈍っている。片付けようとして、余計に散らかってしまう現象に名前はあるのか。

 片付け中は古本も買い控え。未読の本なら山ほどある。「三冊まで」と上限を決め、先週末、西部古書会館。「文藝」編集部・編『追悼 野間宏』(河出書房新社、一九九一年)、『NeoUtopia 藤子不二雄Ⓐ先生 追悼号』(二〇二二年)、それから絵地図を買った。『追悼 野間宏』は、冒頭「アルバム 野間宏」に桑原(竹之内)静雄と野間(京大時代)、富士正晴と野間宏(一九五九年)の写真あり。野間と富士、桑原(竹之内)静雄は同人誌『三人』の同人仲間。武田泰淳の別荘の写真も載っていた。

『NeoUtopia 藤子不二雄Ⓐ先生 追悼号』——Ⓐ先生愛がすごい。愛が重い。Ⓐ先生が亡くなったのは二〇二二年四月六日。特集以外では、連載(一挙三話掲載!)の「黒幕組合の狩猟日記 未収録ハンター 栄光と挫折の記録」が面白い。見出しに「高騰する藤子業界」なんて言葉が出てくる。単行本に収録されていない幻の「一コマ」を求め、オークションで競り合う。
 漫画にかぎらず、熱心なコレクターが世界に三人くらいいると、古書価が急騰してしまうのだ。中古レコードもそう。しかも苦労して入手しても、興味のない人からすれば、なぜそこまでして入手したいのかわけがわからない。何かを集めること、調べることに人生を捧げている人がいる。使命感のようなものに突き動かされているのか。そういう人が書いたものは面白い。

2024/10/15

三十五年

 十月、郵便料金値上げ。定型郵便物八十四円(九十四円)が百十円。スマートレターは百八十円から二百十円、レターパックライトは三百七十円から四百三十円、レターパックプラスは五百二十円から六百円になった。自分のためのメモとして記しておく。

 昨日も今日も部屋の片づけ。押入で五年十年と眠っている雑誌のコピーなどの資料をどうするか。最初からそんなものはなかったと諦めるか。掃除をしながら、体だけでなく、心や気持も動かすことが大切なのではないかといったことを考える。
 おなかがいっぱいだと何も食べたくない。ある種の空腹感、渇望感が心を動かすための鍵なのかもしれない。面白そうなイベントがあったとしても、疲れていたり、予定がつまっていたりすると「今回はいいか」となる。体は動けど、気持が動かない。

 年がら年中、誰に頼まれたわけでもない調べ事をして過ごしている。ぼんやりと全体像が見えてくるちょっと手前までは楽しい。山登りでいえば、五合目あたり。
 コレクション、収集の話でいえば、ある作家、あるジャンルを集めはじめたころは自分の知らない本やら冊子やらを見つけるたびに心が躍る。そのうちだんだん数が増え、残るは入手困難なものばかり……といった感じになってくると「たぶんないだろう。あっても高くて買えないだろう」と古本屋に行く足取りが重くなる。

 本や資料の置き場所が埋まってくると「これ以上、増やすとまずい」という気持が先立ち、ブレーキを踏む。わたしが低迷期に入るときのパターンはいつもこれ。

 金曜昼すぎ、郵便局に寄り、西部古書会館(初日は木曜だった)。本当にほしい本だけ買おうと心に決め、会場入り。『真鍋博展』図録(美術出版デザインセンター、朝日新聞社、二〇〇四年)、『戦後40年 日本を読む100の写真』(文藝春秋臨時増刊、一九八五年八月)の二冊。「戦後40年」がまもなく四十年前になる。「戦後何年」みたいな企画は五十年がピークでその後は下降気味のようにおもう(あくまでも雑誌の話)。

 掃除の合間に岡崎武志編『駄目も目である 木山捷平小説集』(ちくま文庫)を読む。「貸間さがし」も入っている。東京・中央線沿線で「正介」が下宿をさがす。「ポツダム宣言受諾後、もうすぐ四年になろうとしているのに」という文があるので一九四九年ごろの話。初出は「一九五八年二月 別冊文藝春秋」。木山捷平、五十三歳のときの作品である。

「敗戦の時の三月まで、正介は中央線の高円寺に住んでいた」が、敗戦後の東京の貸間借間事情がわからない。部屋を借りるのに数万円の権利金が必要だといわれる。「正介」にそんな金はない。
 吉祥寺の便所なしの三畳間を借りるか借りないかで迷う。作中の「正介」は四十代半ばである。
 木山捷平は淡々とした作風と評される作家だけど、四十代半ばで妻子がいて、それでも文学を続けようと再上京を考えている。もちろん筆一本で食べていける保証はない。文学への執念を秘めつつ、力の抜けた筆致でなんてことのない日常を書く。すごさを感じさせないところも含めて「奇異」な作家だ。

 わたしはこの秋(十月中旬)で高円寺に移り住んで三十五年になる。上京して最初の半年は下赤塚の寮(単身赴任中の父が働いていた工場の寮)に住んだ。寮を出たのは二十歳になるひと月前。以来、高円寺内を何度か引っ越した(台車で本を運んだりもした)。二十代のころは、ずっと「何とか荘」というアパートに住んでいた。三十代後半から五十歳になるすこし前まで借りていた仕事部屋も「何とか荘」だった。こんなに長く同じ町に住むことになるとはおもわなかった。アパートの取り壊しによる立ち退きは三度(仕事部屋も含む)経験した。いつまで自分は高円寺にいるのだろう。そんな疑問が頭によぎる。先のことはわからない。わからないまま三十五年の月日が流れた。

2024/10/08

実篤と三鷹

 昨日暑く(最高気温二十九度)、今日寒くて(最高気温二十度)、しかも雨、終わりの見えない部屋の掃除。

 月曜午後三時、水中書店に寄り、三鷹から武蔵境まで玉川上水沿いを歩く。三鷹駅北口の独歩碑(武者小路実篤の書)、桜橋の独歩碑を見る。水の流れる音を聞きながら、ただ歩いた。気分がいい。
 町を見る。風景を見る。四十代半ばすぎまで、わたしはそういう楽しさを知らなかった。本を読む。音楽を聴く。文化に触れることで心を満たそうとしていた。

 桜橋から武蔵境駅へ。北口の商店街散策。おへそ書房に寄る。『一枚の繪』の「追悼 武者小路実篤先生」(一九七六年七月)を買う。同号の年譜によると、一九三七(昭和十二)年、「市外三鷹村牟礼へ転居」とある。
『武者小路実篤記念館 図録』(調布市武者小路実篤記念館、一九九六年)の年譜には、一九三七(昭和十二)年六月、「北多摩郡三鷹村牟礼三五九に転居」とあり、一九四〇年九月、「三鷹村牟礼四九〇に転居」と記されている。「牟礼四九〇」に転居したとき、実篤五十五歳。四十代後半から五十代半ばにかけて、武者小路実篤は吉祥寺〜三鷹の間で転居をくりかえしている。『牟礼随筆』(大日本雄弁会講談社、一九三九年)という本を刊行している。気になる。

 一九五五(昭和三十年)、調布市若葉町(当時は入間町荻野)に引っ越す。前の年に京王線の仙川駅の近くに土地千坪購入。七十歳で引っ越し。若葉町は京王線の仙川駅、つつじヶ丘駅の間(調布市武者小路実篤記念館もこの地にある)。市は変わるが、三鷹市牟礼と調布市若葉町はけっこう近い。仙川駅は吉祥寺駅、三鷹駅行きのバス(小田急バス)もある。

 武蔵境のTAIRAYAというスーパーで焼き鳥とほうじ茶を買う。武蔵境駅、自分の記憶とかなり変わっている。仙川や調布は三十年以上行ってない。

 JR中央線の三鷹駅と京王線の調布駅もバス(小田急バス)が走っている。バスだと片道四十分くらいか。都内西部、南北の縦移動はバスが便利である。