2025/09/29

秋の気配

 九月がもうすぐ終わる。プロ野球ペナントレースも終盤、ほぼ順位も決まった。毎日、引退、戦力外のニュースが流れる。ヤクルト川端慎吾選手が引退を発表。代打で二塁打。全盛期と変わらぬ美しいスイングだった。川端選手が首位打者になったのは二〇一五年、真中満監督のころか。あれから十年。年をとると月日の流れが早く感じるのは記憶力の低下と関係しているかもしれない。すぐ忘れるから時が早く過ぎているようにおもう。

 九月二十七日(土)、二十八日(日)、二日連続午前中に西部古書会館。ひさしぶりに初日の午前十時台に行った。『中山道 板橋宿 企画展 平尾宿ー脇本陣豊田家』(板橋区立郷土資料館、一九九一年)、『図録 東海道張交圖會』(東海道広重美術館、一九九四年)など、街道関係の資料を数冊、あと辻二郎著『偏光鏡』(岩波書店、一九三六年)を買った。『偏光鏡』は寺田寅彦の追悼文なども入っている。
「寺田博士と随筆」に「昔先生はよく『自分はペンを持つてからは割合早く書いてしまふが、いざ書くと云ふに到る迄は非常に永い間考へて居る、だから結局非常に遅筆だと云ふ事になるだらう』と云はれて居つた」とある。

《先生は常に随筆と云ふものは何でも書きたい事を書くから随筆なので形式等の無い所が随筆の随筆たる所である、そして絵画で云へば南画が其であると云つて居られた》

 深夜、早稲田通りを散歩する。阿佐ケ谷あたりまで。 

 二十八日(日)、西部古書会館二日目。初日に素通りしたガレージのところで大判の『歴史の道 中山道』(読売新聞社、一九七八年)を見つける。二百円。よく残っていた。この日行くかどうか迷っていたのだが、行ってよかった。

『歴史の道 中山道』所収、谷内六郎「野仏のある道」を読む。

《ぼくは郷土愛に徹した人が昔から好きで、伊那路に徹した熊谷元一氏(童画とキャメラ)とか、いずれも戦前活躍した人にあこがれる風で、それらの人も多くの石地蔵、野の仏を沢山描いたせいか、自然ぼくの絵にも石仏が多いのです》

 それから武蔵野の石地蔵の話になり、地方ごとに様々な型、顔があると……。下諏訪の有名な「万治の石仏」について「文に綴ったのはぼくが一番先であった(略)」とも。わたしも「万治の石仏」を見に行ったことがある。この石仏を有名にしたのは岡本太郎だけど、谷内六郎のほうが先に紹介していた。

 谷内六郎は一九二一年十二月生まれ、一九八一年一月没。享年五十九。「野仏のある道」は五十六歳のときのエッセイ。谷内六郎のエッセイ集に収録されているのだろうか。

 文中に出てきた熊谷元一は一九〇九年七月生まれ。亡くなったのは二〇一〇年十一月。享年百一。長生きである。

 夜、野方を通り、環七の歩道橋(西友豊玉南店の近く)からスカイツリーを見て、東武ストアで買物し、練馬大鳥神社に寄り、練馬駅からバスで高円寺に帰る。夜のバス、電車とはちがう風景が楽しい。野方駅付近で乗客がいなくなり、途中から一人になる。

2025/09/25

源平物語絵

 一日中眠い。年に何回かそういう時期がある。今もそう。心身の修復期と考えている。神経痛の予防は休むか寝るかしかない。水分補給も欠かせない。
 五十半ばになると無理をしないための細かい工夫がいる。いかに余力を残すか。怠惰の言い訳におもうかもしれないが、その調整をしくじると長い低迷が待ち受けている。いっぽう休んでばかりだと体が鈍る。五年前、左肩が五十肩になったとき、しばらくの間、左腕をつかうことを避けていた。痛みが治ってきたころ、左手でフライパンを持ち上げることができず、料理をぶちまけそうになって焦った。
 体力を維持するには休息だけでなく適度な運動も必要なのだと痛感した。

 先週末の土曜日昼すぎ、西部古書会館。上方史蹟散策の会編『竹内街道』(向陽書房、一九八八年)を二百円。挟み込みの「竹内街道全図」付。ビニカバなし。向陽書房の街道シリーズの中で一番読みたかった本だ。飛鳥と難波を結ぶ竹内街道は「日本最古の官道」といわれている。

 この日、『源平物語絵セレクション』(神戸市立博物館、神戸市スポーツ教育公社、一九九七年)も買った。江戸後期から明治期の源平合戦に関する絵を収録。書き込み多し。鳥瞰図で有名な歌川貞秀の絵も入っていた。貞秀は一八〇七(文化四)年下総国布佐(現・千葉県我孫子市)の生まれ。地理好きで富士山にも登っている。清水吉康の『東海道パノラマ地図』は貞秀の影響を受けている。わたしは街道の研究を通して歌川貞秀を知った。浮世絵師は変わり者が多いのだが、貞秀もかなり偏屈な人だったようだ。

「源平物語絵」は川や海の戦いの絵がけっこうある。源平は海戦、戦国時代は攻城戦の印象が強い。

『南波松太郎氏収集 古地図の世界』(神戸市博物館、一九八三年)に「日本でも古来から『源氏物語絵巻』のように、ある高さから俯瞰した絵が書かれてきている」とある。「源平物語絵」も合戦を描いた屏風絵など、鳥瞰図っぽい絵がいくつかあった。
 鳥瞰図絵師の「目」がどうなっているのか知りたい。そういう研究はあるのだろうか。

『源平物語絵』の図録の年表は一一五三(仁平三)年、平忠盛が亡くなり、清盛が家督を継いだところからはじまっている。清盛三十四歳。清盛が太政大臣になるのが、一一六七(仁安二)年、四十八歳。このあたりが平氏の全盛期である。

 清盛と西行は一一一八(元永元)年生まれ。平安末の京は飢饉あり火事あり地震あり戦あり……災難続きだった。

 そうした背景を知ると都でそれなりの地位のあった人々が隠遁に憧れた気持もわからなくもない。隠遁するには財力も必要である。諸国を遊行するのも大変だった。

 仏教に興味がないが、旅がしたくて出家した僧もいたかもしれない。

2025/09/21

淡海の海

 十九日(金)、昼前に一度目が覚めたのだが、二度寝したら午後五時。気温は二十二度。窓を全部開け、換気する。秋風ぞ吹く。栗入りの炊き込みご飯を作る。残った出汁でそばのつゆも作る。そばを茹で食べる分をよけ、冷凍する。山形県のみうら食品の乾麺(そば、中華麺)が好きで高円寺の徒歩圏内で見つけるとつい買い込んでしまう。

 夜八時半くらいに東高円寺まで散歩。途中、高円寺南に歌舞伎町タワーが正面に見える路地を見つける。何度も通っているが、昼間歩いているときは気づかなかった。歩きながら高円寺周辺で東京スカイツリーとドコモタワーが見える道を探す。遠くが見えるということは風の通りもいい。

 東高円寺から中野駅方面に向い、中野四季の森公園(中野セントラルパーク)を通り、ブックファーストで新書を買い、家に帰る。

 帰り道の途中、環七付近で「HPSC南」と表示していたバスを見る。高円寺駅北口二十一時三十分発の赤羽車庫行のバス(国際興行バス)と知る。いつか乗ってみたい。
 HPSCは「ハイパフォーマンススポーツセンター」の略。国立スポーツ科学センター、味の素フィールド西が丘などの施設を有している。それにしてもアルファベットの略語はおぼえにくい。

 すこし前に西部古書会館で買った『文藝春秋デラックス』特集「万葉から啄木まで 日本名歌の旅」(一九七四年五月号)を読む。この号が創刊号(編集兼発行人は半藤一利)。「日本の名歌百五十首」の座談会(池田弥三郎、中西進、前川佐美雄、村野四郎、山本健吉)——各人の知識のすごさについていけない。古歌のよしあしを判読するための素養が足りない。とにかく最初のうちは読みまくるしかない。いろいと読んでいると(自分の中で)イメージが広がる歌とそうでない歌がある。

「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情もしのに古念ほゆ」はかつての近江朝(大津京)を懐かしむ鎮魂の歌。柿本人麻呂(人麿)の作。

 この座談会でも人麻呂の歌のどれを選ぶかで盛り上がっている。

《山本 〈淡海の海夕波千鳥……〉がいいじゃないですか。
 中西 わたくしも〈淡海の海〉ですね。
 池田 そうだ。〈淡海の海〉があった。あれがいい。
(中略)
 前川 だれかが言っとったよ。〈淡海の海〉これ一首あれば、日本の国が亡びてもいいって。そう、横光利一だ。
 村野 ほう? それはすごい》

 ちなみに横光利一は小学生になったころ、大津に移り住み、生涯にわたり、琵琶湖を愛した。滋賀に縁のある人は、横光利一の「琵琶湖」というエッセイを読んでほしい(青空文庫で読めます)。

 淡海(あはうみ、あふみ)が転じて、近江(おうみ)となった。また近淡海(ちかつおうみ)の異名もある。いずれも琵琶湖の古称である。

 わたしは街道の研究をはじめて以来、琵琶湖の東岸から大垣あたりの道(中山道・美濃路)が好きになった。旧街道の雰囲気が残っているところも多く、歩いていて楽しい。地形もいい。