二十三日、日曜。都心の最高気温は二十五度以上を観測、今年初の夏日だった。すこしずつ衣替えをはじめる。最近、薄くて柔らかくて洗濯してもしわがつかない夏用の長袖のシャツを見かけなくなった(古着屋で買っている)。
土曜、中野の桃園町(現・中野三丁目)あたりをうろうろ歩く。セブンイレブンやファミリーマートも「中野桃園町店」があり、「桃園」の名を残している。斜めの道を歩いて囲桃園公園を通る。公園の近くにはザ・ポケットなど、小劇場が何軒かある。
そのあと駅の北口に行き、中野ブロードウェイ。墓場の画廊を見て、ブックス・ロンド社で水の文化情報誌『月刊FRONT』特集「寺田寅彦 愉しきサイエンスの人」(一九九六年十二月号、財団法人リバーフロント整備センター)を買う。寺田寅彦の特集は『サライ』の「科学と遊ぶ 寺田寅彦先生の理科大学」(一九九一年十二月十九日号)などがあるけど、たぶんそんなに多くないとおもう。『月刊FRONT』の特集は知らなかった。
「天災は忘れたころ来る」の警句は寺田寅彦の言葉として知られるが、「意外なことに、寅彦の書いたものには記されていない」との囲み記事あり。
高校時代、寺田寅彦の弟子(孫弟子だったかもしれない)という物理の先生がいた。授業中、よく寝ていたので定規で何度か頭を叩かれた。まあまあ痛かった。そんな過去の経験から古本屋通いをはじめてしばらくの間、寺田寅彦は避けていたのだが、あるとき『柿の種』(岩波文庫)を読んだ。
一九九六年四月十六日が第一刷でわたしが持っているのは同年十一月八日第六刷である。半年ちょっとで六刷はすごい。
一九九五年十一月末に業界紙の仕事をやめた。二十六歳から三十歳過ぎまでアルバイトで食いつないでいた。そのころ『柿の種』を読んだ。
同書の冒頭の随筆にこんな一節がある。
《日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている》
その境界を行き来するには「小さな狭い穴」を通るしかない。何度も行き来していると、その穴はすこしずつ大きくなる。穴を見つけても通れない人がいる。
《しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある》
寺田寅彦は「かもしれない」「らしい」「ような気がする」をよくつかう。
なんとなく戦後の軽エッセイの文体に近い(ような気がする……と書きたくなる)。文章が軽やかで古くない。
《眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。
しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。
なぜだろう》(大正十年三月、渋柿)
『柿の種』の「短章 その一」のわずか三行の文章。文庫の二十八頁。頁の空白もいい。