高円寺駅の南方面を散歩するとき、高円寺中央公園から高円寺図書館(すぎはち公園)、青梅街道を渡ってセシオン杉並、梅里公園、そこから環七を渡って蚕糸の森公園——というコースをよく通る。
梅里公園は梅の花が咲きはじめている。先日、紅冬至を見たが、酔心梅という品種もあることを知った。まだ咲いてなかったが「思いのまま」という名前の梅の木も何本かあった。梅の花の見分けがつかない。
蚕糸の森公園から東京メトロの中野富士見町駅は意外と近い。今年に入って中野富士見町も二回散歩している。駅の近くにスーパーのオオゼキがある。ここでコーミソースが買えることを知った。おにぎりせんべいの銀しゃり(塩)が売っていた。おにぎりせんべいは塩派である。おにぎりせんべいのマスヤは三重県の会社。子どものころ、ピケ8という洋風せんべいが好きだった。今も郷里の三重に帰省すると買って帰る。
スーパーのオオゼキは東高円寺駅のニコニコロードにもあったが、二年前に閉店した。一時期、東高円寺のオオゼキと天祖神社を回るのが定番の散歩コースだった。
一月二十八日、尾崎一雄の幻の新聞小説『とんでもない』が春陽堂書店から刊行(企画・編集 田中敦子さん)。わたしは解説を書きました。
一九六一年六月、尾崎士郎が入院で産経新聞の「新・人生劇場」の連載が中断——急遽、その代打として尾崎一雄がこの小説を書くことになった。単行本・全集未収録の作品である。
『父のおじさん 作家・尾崎一雄と父の不思議な関係』(里文出版、二〇二一年)の田中敦子さんから『とんでもない』の話を教えてもらい、わたしはカフェ「昔日の客」の関口直人さんを紹介した。田中さん、関口さんはそれぞれ父が尾崎一雄の小説のモデルになっている。『とんでもない』にも戦災孤児だった田中さんの父も登場する。
『とんでもない』の冒頭、九州出身の阿久津啓作という文学青年が東京から歩いて小田原にやってくる。
尾崎一雄作品によく出てくる仕事が長続きしない文学青年が主人公の長篇である。尾崎一雄の場合、長篇小説そのものが珍しい。『とんでもない』は過去に発表した短篇の逸話があちこちに出てくる。「冬眠居」という章もある。
「冬眠居」の章から作者の分身の多木太一が登場する。
《齢は五十五で、勤め人なら丁度定年というところだが、小説家には定年がないから、退職金も年金もない。やむを得ず無い知恵をしぼって、ぽつりぽつりと仕事をして、どうやら妻子四人を養っているわけだが、この人物は、知恵がないと同時に運もないと見えて、終戦の前年重病にかかり、長年の東京住まいを切り上げ、郷里なるこの下曽我村に引込んだ》
そのあと多木は「暑さ寒さに大変弱い」「冬になるとまるで元気がなくなるのは、蛇や蛙と同様である」といった記述もある。
わたしは『新編 閑な老人』(中公文庫、二〇二二年)を編集するさい、「歩きたい」という短篇を軸にした。
病床の尾崎一雄の願いは自由に歩き回れるようになることだった。『とんでもない』は歩く話がよく出てくる。
下曽我は梅の名所で尾崎一雄は梅干し作りが趣味だった。
わたしは長年漬物が苦手だったのだが、四十歳すぎてから梅干を食べられるようになった。
文壇高円寺
2026/01/27
とんでもない
2026/01/19
冬の底
一月十一日、十二日、十三日が今年の「冬の底」かもしれない——と書いたばかりで恐縮だが、十四日(水)と十五日(木)がもっと底。ここ数年で記憶にないくらいの底。
季節の変わり目というか、たぶん寒暖差に弱いのだろう。
十六日(金)、夕方四時すぎに起き、夕焼けを見ながら馬橋公園から阿佐ヶ谷神明宮に向かう斜めの道を歩き、そのまま阿佐ケ谷のアーケードの商店街を散策しているうちに、調子の回復を実感した。好きな道を歩くのは精神衛生によい。
十七日(土)、昼すぎ、西部古書会館。大均一祭(初日一冊二百円、二日目一冊百円)、奥野健男著『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻』(集英社、一九七二年)、『屋根の花 大佛次郎随筆集』(六興出版、一九八〇年)、佐々木節=文、平島格=写真『日本の街道を旅する』(学研、二〇一一年)など。『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻』は、増補版も刊行されているが、どちらも古書価が高い(「日本の古本屋」で五千円くらい)。
二〇二三年十二月二十二日のブログ(「暮らしの型」)で「奥野健男著『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻想』(集英社、一九七二年)、家にあるはずなのだが、見当たらない」と書いている。
この日、西部古書会館に行く途中の道でなんとなく『文学における原風景』がありそうな予感がした。会場を一回りして会計をしようと後ろを振り返った棚に『文学における原風景』が見えた。心の中で「よし」と叫ぶ。
同書の「原っぱ・隅っこ・洞窟の幻想 都市の中の原風景」では、東京山の手に育った著者が「“故郷”とか“ふるさと”とかいう言葉を聞くたびに、奇妙な異和感といらだちをおぼえたものだ」と述べている。
《それはさておき、家のことを別にすれば、幼少年期の思い出として、吸い込まれるようなかなしさ、なつかしさで、ぼくの心を揺するのは“原っぱ”である。“原っぱ”こそ、ぼくの“原風景”であり、ぼくの故郷の断片である》
わたしの郷里は三重県鈴鹿市の工場の町だったが、幼少年期の一九七〇年代——近所にドカンのある空き地が残っていた。
ただし、なつかしさをおぼえるのは生まれ育った町より、母方の祖母が暮らしていた浜島(現・志摩市)の海である。近鉄の鵜方駅からバスで二、三十分。子どものころ、英虞湾の矢取島(歩いていける)のあたりで釣りをした。
2026/01/13
低迷中
寒さに弱いが、冬の晴れた日の澄んだ空気が心地よい。
一月二日に横浜から高円寺に戻って以来、十日以上、電車に乗っていない。すこし前に永福町まで散歩し、「ふくにわ」で富士山を見て、バスで高円寺に帰った。
毎年一月中旬から二月の間の数日——「冬の底」と呼んでいる気力体力の低迷期がある(一月二十日の大寒のあたりが多い)。昨年は「一月二十六日、二十七日、二十八日」がそうだった。一月十日前後の年もある。
今年は——今日一月十一日、十二日、十三日がそうかもしれない。まだわからない。急に生活リズムが崩れ、一日の大半、頭が回らなくなる。今のところ、体の怠さはない。
夜になり、調子が上向いた気がしたので佐藤春夫の『白雲去来』『續 白雲去来』(筑摩書房、一九五六年)を再読する。新書よりやや大きめのサイズの本。新聞連載をまとめた時評風の随筆である。
『續 白雲去来』に「散歩の場所を求める」という一篇がある。
西洋哲学、ドイツ文学、古典語学、そして音楽家のケーベル博士(ラファエル・フォン・ケーベル)の話。
ケーベル博士は、東京にはいい散歩の場所がないと嘆いていた。赤坂離宮付近は例外だった。
佐藤春夫はケーベル博士の言葉を受け、今日の東京の町は「人間の散歩はおろか必要な歩行さえむつかしい場所」となったという。
「今日の東京」は七十年前。佐藤春夫、六十三歳ごろ。
《僕のやうなそそつかしい、うつかりしたのはとても東京で散歩などは思ひも及ばない。機械類の横行せぬ裏道を行けば、犬の糞や小便の悪臭のために僕のやうな野人も閉口するありさまで、つひに東京の散歩はあきらめるほかはないと思ひ知る》
佐藤春夫の随筆——昔の話と今の話の按配がいい。
一九五〇年代半ばの東京、当然のことながら生活は不便だったし、道路事情もわるい。今のほうが歩道も整備されていて、歩きやすい。
『續 白雲去来』の「何のために書くか」は久々に再読して新たな感銘を受けた。
《一般の世人と多少すべての感じ方考へ方に相違ある自分は、いつも通俗的な考へ方の世人よりは自分の思考方法もしくは思想そのものを世人よりも正しいと信じ、それを世人に承認させるために書いて、自分流の考へ方感じ方をする種族を一人でも多く世にはびこらせて置く仕事をしてゐるのだと考へて自分だけはそれで納得した》
《同じ考へ方、同じ感じ方、すなはち同じ生き方の人間を世界に繁栄させて新しい希望を世界につなぐわたくしである》
わたしは佐藤春夫のように「自分の思考方法もしくは思想そのものを世人よりも正しい」とはおもっていない。
いっぽう古本好きや不規則な生活をする人や意味もなくふらふら歩く人が増えたら嬉しい。自分と似た種族を増やしたいのかもしれない。繁栄しそうな気配はあまりしない。