本を積めたダンボールを動かそうとしたら、左肘に違和感をおぼえた。またやってしまった、とおもった。曲げたり、力をいれたり、ものを持ったりすると、ピリッと痛みが走る。激痛ではないのだが、本を読んでもピリッ、原稿を書いていてもピリッ、食器を洗っていてもピリッとくる。
前にも長時間うつ伏せで本を読んでいて右肘を痛めた。すぐには治らなかった記憶がある。
夜、沖縄そばっぽいものを作る。沖縄そばのスープ(市販のもの)に野菜と挽肉、ちゃんぽんの麺をいれる。残ったスープは雑炊にする。
『色川武大・阿佐田哲也エッセイズ』の「放浪」の巻を読んでいたら、「節制しても五十歩百歩」というエッセイがあった。
《人は健康のために生きているわけじゃない》
《昨今の私がしていることの中で、もっとも身体にわるいと思えるのは、仕事である》
中年をすぎて節制してもたいして変わらない。ところが、戦争がなくなって、病気にならず、事故を避けていれば、永遠に生きられるかのような錯覚におちいった人が増えた。
色川武大は、節制ではなく、「うまく片づくという方向に努力すべきではないのか」と問いかける。
自分の言葉に殉じた作家、または自分が殉じることのできる思想のみを言葉にした作家だった。
だから、わたしは色川武大の文章に魅了される。同時にとんでもない人間だとおもう。
五年くらい前、わたしは鮎川信夫の次の言葉を引用したことがある。
《表現という問題そのものも、現代においてはそれほど骨身をけずるものではなくなっている。表現というより表出で、今ほとんどの表現はその段階にきていると思う。多くの雑誌を見ると、僕らみたいな昔者には真似できないぐらい皆うまくなっている。しかし、一定の技術・コツの中での表出である」(「『一九八四年』の視線」/鮎川信夫著『疑似現実の神話はがし』思潮社、一九八五年刊)
わたしは「表出」ではないものとは何だろうと考えていた。
「一定の技術・コツ」があれば、どんな意見であっても(自分がおもっていないことであっても)、それなりに読める文章にすることができる。
「骨身を削る」というのは「苦労する」という意味ではない。
たとえまちがっていたとしても、どうにも変えられない骨絡みの考えを身を削って書く。
鮎川信夫のいう「表現」はそういうものだった。
わたしはよくわかっていなかった。まだわかっているとはいえない。
ただ、目指したいのは、そういう「表現」なのである。