いつの間にか五月。雑誌の連休進行が終わって、ちょっと一息。漫画を読んだり、アニメ(『進撃の巨人』と『翠星のガルガンティア』)を観たり、おもいきりだらだらすごした。今年のゴールデンウィークはどこにも出かける予定はない。
酒飲んで、本読んで、連休明けのしめきりの原稿を書く。平日も休日も関係ない。休みと決めたら休み、決めなければ休みではない。
毎日、インターネットで注文した古本が届く。届いた本の中には、自分の守備範囲外だった小説家のエッセイ集もある。
キンドルで一冊だけダウンロードしたら、あまりにも好みの文章で「この二十年くらい何をしていたのか」と呆然としてしまった。
その作家の名前は知っていたのだが、なぜ今まで手にとらずにきてしまったのか。
エッセイとコラムというジャンルにかんしては、古本だけでなく、新刊本もチェックしてきたつもりなのだが、ときどきそういうことがある。でも不思議なことに、ちょうど今がその作家を読むべき時機だったのではないかという気もする。
最初の一冊は電子書籍で読んだのだが、すぐ同じ本の文庫本を買い直した。キンドルだと頁数がわからない。どこまで読んだのか知りたいのだが、「78% 位置No.2784」とか「章を読み終えるまで:2分」といった表示しか出ない。
あらためて紙の本(という言葉をつかうのにはまだ抵抗がある)の素晴しさを再認識した。電子書籍は読む分には申し分ないし、寝る前に部屋のあかりを消した状態で読めるという快適さは捨てがたい。でも本の頁をめくる。知らず知らずのうちに既読と未読の分を頁の厚みで把握している。手や指先、重さでどこに何が書いてあったかをおぼえている。
電子書籍で読んでも「この先、何度も読み返すだろうなあ」とおもった本は“モノ”として手もとに置きたくなることがわかった。
その作家は誰なのかは秘密にしておく。