一日、コタツ布団と電気ストーブをしまう。以前は六月までコタツをつかっていたのだが、ここ数年、ゴールデンウィークあたりにしまうことが増えた。
エアコンの掃除、窓拭きもする。
F・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』(小川高義訳、光文社古典新訳文庫)が電子書籍化されていたのでダウンロードした。
冒頭付近で「私」は、読書の幅を広げようと考え、「もっとも専門性に乏しい専門家、いわゆる『オールラウンド』な人間になろうとした」とふりかえる。そのあとに続く文章が素晴らしかったので、おもわずメモした。
《いや、べつに警句を吐きたくて言ったのではない。人生は一つの窓から見るのがよい。最後にはそうなる》
それから数日「ひとつの窓」について考えていた。いわんとすることはわかる。だが、どのくらいわかっているかは自信がない。
世の中にたいし、漠然としたおもいしか抱けないのは、「ひとつの窓」を持っていないからではないか。たぶん「ひとつの窓」は、「専門」と同じ意味ではないだろう。
わたしはどうも隙間産業気質が抜けず、小さな「窓」をたくさん作ってしまいがちである。その結果、どの「窓」から見たらいいのかわからなくなる。
フィッツジェラルドの「ひとつの窓」でおもいだしたのは、星野博美さんの『銭湯の女神』(文春文庫)の「一〇〇円の重み」だ。
一〇〇円ショップで買ったプラスチック製の健康青竹から町工場を経営していた父の話になる。一〇〇円の健康青竹を見た父は「これ、型を作るの大変なんだ」とつぶやく。プラスチックの容器を見ると、どんな金型で作られたのか気になってしかたがない。一〇〇円の商品だと金型を作る人たちにはいくらお金が入るのか。
《父は金型というドアから、社会の仕組みを見ている。金型から生まれた物すべてに愛着を持っている。そんな揺るぎないドアを持っていることが、私には羨ましい》
わたしの知り合いだと、『フライの雑誌』の堀内正徳さんも「ひとつの窓」の人だ。釣り人の立場から、魚のこと、川のこと、自然のこと、社会のことまで持論を展開する。わたしもそうありたい。自分にとっての「ひとつの窓」を曇らせないようにしたい。