2016/10/10

完璧の手前

 先月、郷里に帰省したとき、四日市で途中下車して、ジャズフェスを観た。そのとき、もやもやしたというか、「これって何だろう」とおもったことがあった。
 音楽における「うまい」「へた」と「おもしろい」「つまらない」は別だ。「うまいけど、早く終わらないかな」とおもってしまうバンドがあったり、一心不乱に演奏している高校の吹奏楽部のビッグバンドに心が揺さぶられたり……。

 数日前、家に帰ってテレビをつけたら、「たけしのニッポンのミカタ!」がやっていた。途中から観たので、どういう流れでそういう話になったのかはわからないが、(芸は)完璧になると客は飽きるというようなことをいっていた。

 ちょっと危なっかしくて観ているほうがハラハラするくらいのほうが客にウケる。その状態をビートたけしは「完璧の手前」と表現していた。

 このことはあらゆる芸事に通じるかもしれない。
 整いすぎたもの、おとなしくまとまったものには感情移入しにくい。ひっかかりがないと印象に残らない。ひっかかりは何かといえば、危なっかしさみたいなものだ。

「うまい」=「失敗が少ない」みたいな勘違いもある。
 ミスを減らす方法はふたつある。ひとつは「ものすごく努力する」、もうひとつは「難しいことに挑戦しない」だ。
 難しいことに挑戦しなければ、失敗は減らせる。一見、うまくなったような気がする。でもおもしろくなくなる。
 それに「うまい」というのは、数ある評価軸のひとつでしかない。「かっこいい」とか「おもしろい」とか「勢いがある」とか「ノリがいい」とか「瑞々しい」とか「めちゃくちゃ」とか「珍しい」とか、いろいろな価値観があって「うまい」というのも、その一要素にすぎない。見る側にもそれぞれの好みがある。

 そうしたいろいろな要素をぜんぶひっくるめた上で「技術」や「持ち味」が問われる。「完璧」が目標ではない世界がある。

 わたしがもやもやしていたのは、音楽を聴いたり、本を読んだりしているときに「うまい」「へた」の評価をしてしまう自分の狭さ、堅苦しさだったのかもしれない。