二十年くらい前に買ったコタツから異音が出るようになったので、ヒーターの部分だけ買って取り換えた。新しいコタツのヒーターは省エネタイプで、今のところ快適である。
コタツヒーターは「弱」から「強」の間に五段階のメモリがあるのだが「弱」でもけっこう暖い。
部屋の掃除中、安田武、野添憲治編『暮らしの型再耕』(現代書館、一九九二年)をぱらぱら読む。一九八二年八月号から『望星』で連載していた座談会(鼎談)をまとめたもの——安田武は一九八六年十月、六十三歳で亡くなっているから、没後しばらくして刊行された本ということになる。安田さん、野添さん、武者小路規子さんとの鼎談「生活の周辺をいかに耕すか」でこんな話をしている。
《いまの日本の、特に都会の生活のテンポは早過ぎるというか、適正じゃない。どこか山奥深いところにでも隠遁して暮らさない限り、どうしても回りの時間に引きずられてしまいますね》(武者小路さんの言葉)
四十年以上前の発言である。今、生活のテンポはもっと早くなっているだろう。とくに仕事は、周囲のテンポと足並みを揃えることが求められ、いつも急かされるような圧を受ける。また日常の選択肢が多すぎて、やらなくてもいいことをやって余裕を失うこともある。
《今後いかにわれわれ自身が自己抑制を回復していかなきゃならないかということですね》(安田さんの言葉)
《人間は本来、五感で生きているはずなのに、いまは二感か、三感でしか生きていない。だから身体全体で見たり、聴いたり、さわったり、感じたりしていく部分がものすごく少なくなってきた》(野添さんの発言)
『暮らしの型再耕』の多田道太郎がゲストの鼎談「遊びは生活を深める」では、原っぱの喪失についても論じている。
《昔といまの遊びを比較して、一番大きな変化は何だろう? 僕は路地がなくなったこと、広く言えば原っぱがなくなったことが第一だと思う》(安田さんの言葉)
《しかし、京都には原っぱはほとんどなかったからなあ。奥野健男氏も『文学の原風景』の中で「原っぱ論」を展開していたけれど、安田さんもそういう思い出があるんだな》(多田さんの言葉)
——奥野健男著『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻想』(集英社、一九七二年)、家にあるはずなのだが、見当たらない。同書は一九八九年に増補版も出ている。古書価高い。
橋本治が講演で「原っぱの論理」を語ったのは一九八七年十一月だから『暮らしの型再耕』のほうがちょっと先か。安田武と橋本治、歌舞伎が好きだったり、いろいろ共通点がある。『些末事研究』の福田賢治さんは、安田武の影響をけっこう受けているようにおもう。