気がつけば年末、やや低迷気味の一年、充電の年だったと前向きに考えることにする。
土曜日(二十三日)、午後三時すぎに起き、午後四時前に西部古書会館。入口前のガレージで福原麟太郎の『詩心私語』(文藝春秋、一九七三年)を見つける。二百円。ずっと探していたのだ。嬉しい。白い背表紙の「人と思想」シリーズの一冊で二段組五百頁超(「チャールズ・ラム傳」が丸々収録されている)。
同書「芸術の鬼」に次のような一節がある。
《芸術は真似事である。真似事は技巧であり、形である。そしてまた伝習でもある。しかし、技巧や形や伝習ばかりでは芸術は生きることが出来ない》
福原麟太郎は謡曲「山姥」について考察しつつ、芸術に「生命」を与えるものは何かを問う。
京の遊女が信濃の善光寺詣での途中、越中越後の境の山で道に迷い、山姥と出会う。山姥は遊女に“山姥”を題材にした曲舞を所望する。もともと遊女は“山姥”の曲舞を得意としていたが、まことの山姥は彼女の芸にたいし「心を失っている」と手厳しい。
遊女が出会った山姥は芸の精神を伝える「霊鬼」でもあった。
《芸術というのはその鬼を探す仕事、鬼に触れる経験である》
初出は一九四一年九月——福原麟太郎四十六歳。
《生命のある芸術が生れるときには、何かしらの精神を掴まえているのであるが、それが形として技巧として伝えられてゆくうちにその精神を失ってしまい、心を取り違えた技術がそれから派生してはびこる。これを芸術の堕落という》
舞台に立ち、場数を踏む。技術が向上し、形が洗練され、安定してくる。同時に初々しさ、緊張感が失われる。技巧を磨くことは容易ではないが、心に響く芸に至るにはそれだけでは足りない。
仮に演者の側に「鬼」が宿っていたとしても、観る側聴く側が感じとれないこともあるだろう。
「芸術の鬼」の話から横道にそれるけど、「山姥」の遊女が京から東山道(中山道)ではなく、北陸道を通り、信濃に至る道筋が気になる。京から善光寺に行く場合、琵琶湖西岸から敦賀あたりに出て北陸道経由のほうが近いのか。さらに船をつかえば、かなり早く辿り着ける。
地図を見ると、えちごトキめき鉄道の市振駅の東南に山姥神社がある。謡曲「山姥」の物語がこの地(糸魚川市上路)に民間伝承として伝わっている。上路の里、行ってみたいが、大変そうだ。