きのう午前中、宅配便(インターネットで注文した古本)が三回来て、睡眠が中断してしまった。しばらく部屋の掃除をして、正午すぎから午後三時くらいまで寝て、それから一時間くらい高円寺の南口のほうの散歩して、名曲喫茶ネルケンでコーヒーを飲んだ。
風の強い日はからだがだるくなる。大潮のときは、頭が働かなくなる。
夕方五時すぎ、また眠くなる。起きたら日付が変わっていた。
深夜一時すぎ、コンビニにタバコを買いにいく。
寒い。手が冷える。
家に帰ってコタツ布団を出すことにした。十一月にコタツ布団を出すのは、はじめてかもしれない。いつもは十月の半ばごろには出ている。
いつもコタツで仕事をしている。子どものころからコタツが机がわりだった。せまい長屋で親子三人でくらしていたので、机というものがなかった。
十九歳でカバンひとつで上京したとき、真っ先に買ったのは、コタツと電気スタンドだった。質屋で買った。合わせて千五百円。電気スタンドは店の人におまけしてもらった。
布団がなかったのでコタツで寝ていた。
一九八九年、バブルの最盛期だったが、部屋にはテレビも電話も冷蔵庫も洗濯機もなかった。
電話も風呂もトイレも共同だった。
電車賃がなくて新宿から高円寺までよく歩いた。
全国のコミューンを訪ね、電気もガスも水道もない村で、朝五時に薪割り、鶏をしめたり、堆肥をつくったり、豚小屋の掃除なんかもした。
そういう環境になれば、自分はちゃんと適応できることがわかった。
それから何度か引っ越しをくりかえし、ものが増えた。もうほしい電化製品はない。置く場所もない。壊れたら、買い替える。それだけだ。
花森安治著『逆立ちの世の中』(河出新書、一九五四年)に「暮しの中から」というエッセイがある。
《電気センタク機があつたら、真空掃除機があつたら、電気冷蔵庫があつたら、どんなにかたのしい暮しが出来るだろうと思うのは人情であろう。反対はしない。
しかし、センタク機どころか、肝腎の電気ひとつ自由に使えない世の中に暮して、あれがあつたら、これがあつたらは夢の話に近い。むろんこの夢の話が実現しなくては、暮しの向上も、解放も出来ないということもわかる》
半世紀前の日本の話である。
センタク機、掃除機、冷蔵庫が、夢の電化製品だった時代があった。
さらにこんな話も出てくる。
《みかん箱でもいいから、椅子の代りに、台所に置いたら、と言つたら、ミカン箱の椅子なんてそんなミミッチイこといやですわ、と答えたひとがいる。
ミカン箱の椅子は、たしかにミミッチイ。出来ることなら、外国雑誌に出ているような、純白のラッカア吹きつけの、ハイカラな椅子がいいにきまつている。
しかし、そんな椅子を買えなかったら、どうすればいいのだろう。いまの日本の暮しは、まあ、そんな状態なのだから》
《美しく暮したいと思うことは、たしかに人間の、すべての人間の権利である。
百のことが出来なければ、ゼロでよろしい、というのは玉砕主義である。百のことをするなというための、ゴマカシを言うつもりではなく、百のことが出来ないとき、たとえミミッチかろうと何であろうと、一つでも二つでも、ほんのすこしでもいまより美しく暮したいと思い、思う以上は、それをやってみる、それが、人間としての権利なのだろう、という気がして仕方がないのである》
生活の向上という目標は、いつごろ達成されたのだろう。
まだまだ、もっともっと向上したいとおもう人もいるかもしれないが、現在多くの日本人の物欲、消費欲の対象は、生活必需品ではなくなってしまった。
冷暖房のある部屋に住んで、着る服にも食うものにも困らない。
むしろものが増えすぎて困っている。
いったいどれだけの時間を整理整頓に費やしているか、わからない。
読んでいない本を売る。まだ着られる服、履ける靴を捨てる、賞味期限のきれた食材を捨てる。
おかしなことになっているとおもう。
向上心をもつことがむずかしくなっている。
自分はなんのために生きているのかわからない人がいてもおかしくない。昔の人だって、そんなことはわからなかった。ただ、そんなことをかんがえるひまがなかった。
このあいだ、神保町で編集者と酒を飲んだとき、「昔は、このへん、コンビニもなにもなくて、夜、泊まりで仕事だとほんとうに困ったんだよ」という話になった。
編集部に泊まりこみで仕事をすると、十五分くらい歩いたところにある二十四時間営業の牛丼屋でメシを食った。
「ここで屋台やったら、ぜったい儲かるよ」
貧乏ライターと会うと、そんな話ばかりしていた気がする。
今、高円寺では駅前のスーパーも二十四時間営業だし、通りという通り、いたるところにコンビニがある。
人の欲望は、暮らしをどんどん便利にしていく。
インターネットのおかげで家にいながら、なんでも買える。
家事代行サービスなんていうものもある。
そのうちロボットが働いて、人間は遊んで暮らしていけるような世の中になるかもしれない。そうなったら、趣味で苛酷な労働をやりたいとおもうような人も出てくるかもしれない。
今だってわざわざ高いお金をはらって、スポーツジムで汗を流す人がいるくらいだ。
昔の日本人からすれば、かんがえられないぜいたくだ。
《買いものをするのは、誰でもたのしいにちがいないと思うが、それも買うものによりけりで、今夜からどうしても必要なたわしを買うとか、いよいよ使えなくなつた土瓶を一つ買うとかいうのは、おなじ買いものでも、あまりたのしくないのはどうしたわけだろう。
これに反して、なにを買うというあてもなく、ふところにいくらかのお金を持つて、飾り窓をのぞいて歩く気持は、無類格別である》
《お金を上手に使うというのは、たのしく暮らすための技術である。上手に使つたつもりなのに、かえつてたのしくないとしたら、それはほんとうに上手な使い方ではあるまい、きちんと整理された家計簿であればあるほど、その費用の一つに「むだづかい」という項を入れるべきだと思う。いくらいそがしいからといつて、まさか、十日も一月も眠らないですませようというひとはないだろう。働くためには、ムダにみえる「寝る」ということが実は必要なのである。老子だかの言葉に、「無用の用」というのがあるが、つまりそれである。目の先の合理的にとらわれて、「無用の用」をわすれると、結局は大きい意味で、非常な不合理をしていることになつてしまう》
(高価なものと美しいものと/『逆立ちの世の中』)
ちなみに「無用の用」は、老子ではなく、荘子だったような気がするのだが、それはさておき、むだづかいばかりして、遊んでばかりいて、寝てばかりいる人間も、世の中にとっての、なんらかの「無用の用」の役割をはたすのか、はたさないのか?
いそがしい人が読まない本を読んだり、かんがえないことをかんがえたり、悩まないことを悩んだりすることが人類の役に立つことだってあるかもしれない。
いや、今、日本中が生活必需品ではなく、「無用の用」を作り出すことにあくせくしているのではないだろうか?
そんなことをかんがえていたら、また眠くなってきた。