2006/11/13

専門と専門外

 わたしは自分のわからないものを否定する気はない。
 いくらプロ将棋の棋士の対局を見てもわからない。そのすごさがわかるためには、かなり将棋を勉強しなければならないことはわかる。でも将棋の棋士が、文学や政治や経済について意見を述べた場合、「ちょっとちがうだろう」とおもうことはよくある。

 スピリチュアル・カウンセラーや占い師が、霊やオーラについて語るのは別にいい。彼らはそういう専門家だ。でも家族関係や教育や政治、あるいは医学については、あんまり余計なことはいわないでほしいとおもっている。
「あなたの病気の原因は………」という以上、いちおう医学部くらいは卒業していてほしい。
 ただし、病は気からという考えもあることは否定しない。科学が万能であるともおもっていない。

 わたしはフリーライターという立場上、オタクのことやエハラー現象、エビちゃんOL、そのほかいろいろな原稿が書いている。いずれも専門ではない。専門ではないが、読めるかぎりのものは読んで書いているつもりだ。

 良書、悪書を見分ける能力は、あまり本を読まない人よりはあるとおもっている。文章になったものであれば、その矛盾や破綻についても、あまり本を読まない人よりは見える。

『新潮45』で連載中の江原啓之の「スピリチュアル世相診断」(二〇〇六年十一月号)では、日本の少子化問題について、かれはこんなふうに書いている。

《さて、先ほど子どもは親や国を選んで生まれてくると言いました。となると、日本で起きている少子化現象は、子どものたましいが日本人の両親を選ばなくなっているせいだからでしょうか》

《私たちのたましいはこの世を受け、それぞれの人生を生きています。同じようにこの世に生まれ、自らを浄化向上させていきたいと思っているたましいは、霊的世界にはたくさん待機しています。ところが、この世に肉体を持っている人がお腹を貸して産んでくれない限り、その願いは永遠に果たせません。
 ですから、親になって一人でも多くの人間をこの世に誕生させてあげることは、霊的世界に対する尊いボランティアなのです》

 わたしは霊は見えないが、この論理でいうと、「子どものたましい」は、戦争や飢饉に苦しんでいる国の子どものたくさん産む人のところを選んでいるということになる。

 また「一人でも多くの人間をこの世に誕生させてあげること」が、霊の世界にはよいことでも人口爆発で社会がめちゃくちゃになってしまうようでは本末転倒である。
 霊の世界によいことは、かならずしも人間の世界にとっていいとはかぎらないし、さらに地球上の生態系にとってもあんまりよいことではないということになる。

 もしわたしが霊の見える人間だったら、霊の世界に加担するかどうか、悩むだろう。「子どものたましい」は、戦争や飢饉がある国を選ぶのであれば、どんどん人が死ぬほうがいいという話になる。そうすれば、人が死ねば死ぬほど霊は増える。霊にとっては、そのほうがいいとなれば、わたしはそんな霊のいいなりにはなりたくない。

 すくなくとも、江原啓之の少子化対策に関する文章には説得力がないと判断した。
 でも彼の言葉に救われる人がいることは否定しない。

 最近、気になっているのは、爆笑問題の太田光の政治発言である。
 お笑い芸人という立場ではなく、政治家(あるいはその専門家)と対等の話し方になっているときがある。漫画家の小林よしのりもそうなってしまった。「専門外」から「専門」になった。そして「専門」になったとたん、余裕がなくなる。
 ようするに、おもしろくなくなる。
 おもしろいということは、特殊な才能である。

 爆笑問題のようなお笑い芸人になることは至難のわざだが、太田光くらいの政治発言をする人間はいくらでもいる。太田総理? 向いてないよ。

 わたしも専門外の政治についてものをいうと、中学生レベルの薄っぺらなことをいってしまい、いつもあとで恥ずかしいおもいをする。だから専門の深いことはわからなくても、薄っぺらなかんじだけはわかるのだ。

 専門外のことにたいして、なにかいいたくなる欲求はわたしにもある。
 ひょっとしたら、守護霊のせいかもしれない。