八月三日(金)、仕事帰りにウィークエンド・ワセダに行ってきた。初日午後七時スタートは、ほんとうによかった。中央線の住民としては夜から古本屋めぐりをするのは、めずらしくない。
夜の早稲田の古本街は新鮮だった。わたしは週何日か神保町界隈で仕事(アルバイト)をして、東京メトロ東西線で高円寺に帰る。それが午後七時前で早稲田の古本屋はその時間にはたいてい閉まりかけている。
夜、早稲田界隈で古本屋が開いていたら、途中下車する回数は格段に増えるとおもう。たまにでもいいから、夜間営業してほしい。
立石書店から古書現世の順でまわった。ひさびさに買ったなあ。池袋の往来座出品のベトナムのかごはさっそくつかっている。
『HB』の創刊号も買った。特集は「高田馬場から考える」。
橋本倫史さんの「さよなら古書感謝市」では、BIGBOXの古本市の敷居の低さ、棚の雑然としたところを評価している。
図書館と新刊書店(あと今ならAmazonも含めてもいい)を主に利用しているいわゆる「本好き」は、かならずしも古本屋通いをするわけではない。古本マニアになると、知らず知らずのうちに敷居が高くなってしまうところがある。
昔、『彷書月刊』の田村さんが、古本屋通いをはじめた人が、古書会館に行ったり、目録で本を買うようになるのは、ほんのごくわずかだというような話をしていた。そういう意味で、たしかにBIGBOXの古本市は、古本の初心者が気軽に行ける古本市だったなあと、今さらながら惜しまれる。
雑誌作りも古本稼業も、商売である以上、儲かる、儲からないという問題は切実だとおもうけど、目先のことだけではなく、未来の読者、未来のお客さんを作ることもおなじくらい大事なことだとおもう。
先日も若い編集者とそんな話をしていた。たしかに今雑誌を買うのは、五十代以上かもしれない。だから年輩の人向けに雑誌を作ればそこそこ売れる(という計算は成り立つ)。もちろん読者と共に齢をとってゆく雑誌はあってもいい。そういう雑誌も必要だとおもう。でもそれだけではいけない。
古本屋にしても、マニア向けの部分と初心者向けの部分、たぶん両方必要なのだとおもう。
「敷居の低さ」と「雑然」。気にしていても、つい忘れてしまう。ものを作っていても、あるいはなにかを蒐集していても、ついつい「洗練」にむかってしまう。そのせいかどうかはわからないけど、行きづまってしまう。
同じような日常をくりかえしてうちに、ある種の慣れというか、あんまり深くかんがえずに、なんとなくやりすごせてしまうようになる。
目先の仕事も大切だけど、とりあえず、何の種をまくのかを決めずに畑を耕しておくことも大事かなと……。
ブログ「文壇高円寺」をはじめてちょうど一年になります。これからも地味に続けていきたいとおもっています。