二十代後半はほんとうに先が見えない状態で、どうやったらそこから抜け出せるのか悩んでいた。当時やっていた仕事は、将来やりたい仕事とつながっているとはおもえなかった。どんなに文学が好きでも、それは仕事にはならないと諦めていた。
昔から人に相談したり、質問したりすることが苦手だったから、たいてい読書で解決しようとしてきた(当然、解決できないことのほうが多いわけだが)。
尾崎一雄の私小説(『暢気眼鏡』ほか)、色川武大の「虫喰仙次」(『虫喰仙次』)「友よ」(『花のさかりは地下道で』)、古山高麗雄の「湯タンポにビールを入れて」「ジョーカーをつけてワンペアー」(『湯タンポにビールをいれて』)といった短篇で食えない作家、編集者の身の処し方をいろいろ学んだ。
吉行淳之介もそうだ。吉行淳之介はアルバイトの編集記者時代、同人雑誌にも参加していたのだが、仕事が忙しくなると、文学のことを考える余裕がなくなったと書いている。
《私はこの期間を、将来作家として立つまでの「雌伏の時期」というようには見ていない。私はその日その日を精一杯生きていたのだし、また作家として立ちたいという希望も持っていなかった。(そういう希望を持って苛立つことは、精神衛生上悪い、となかば無意識のうちに切り捨てていたのかもしれぬ、といま考えてみたりもする。いろいろの要素が絡まっているようで十分には分析できない)。しかし、結果としては、この時期は作家としての私の土壌に、十分な肥料をそそぎこんだことになる。もしこの時期がなかったとしたら、かりに作家として立つ機会を持てたとしても、とうてい長続きはできなかったとおもう》(『私の文学放浪』)
不遇な時期は、後の肥料になる。そう考えて、気持を立て直す。
今おもうと、かなり荒んだ生活を送っていた気もするが、荒みきらずにすんだのは、読書のおかげだったかもしれない。とはいえ、どこかで生活を持続させられるようにならないと、本を読むことも文章を書くこともままならない。でもその方法がわからなかった。
《私は娯楽雑誌つくりに愛情と情熱をもって働いていたが、三流雑誌の仕事には、心を衰えさせる事柄があまりにも多かった。屈辱的なことに出合ったときには、「自分にはもう失うべきものは何も残っていない」という言葉を呪文のように繰返し、かろうじて心を鎮めた。そういう私にとっては、やはり自分自身の内面の世界をもつことが必要だったわけである》(『私の文学放浪』)
自分の好きな作家にも苦労していた時期があった。その苦境から抜け出した方法はそれぞれちがう。運不運もあるが、けっして運だけでもない。ナゲヤリになったり、ヤケになったりはしていない。
自分の心を鎮める方法、いいかえれば、自分のとりあつかい方を身につけていた。
わたしの苦労は自分が楽することばかり考えていた結果である。いろいろな面倒な仕事を押しつけられる。それが肥料になる。ただ、それだけだと器用貧乏になってしまう。そうならないための忠告も、先にあげた作家の本のどこかに書いてある。あったとおもう。