スポーツや碁将棋であれば、勝ち負けがはっきりしているから、いやでも自分が強いか弱いかわかる。でも文章の世界は、それがなかなかわからない。まわりから「ヘタだ」「つまらん」といわれても、「そっちの読み方がわるい」「うまければいいというものではない」といろいろなまぎれや言い訳を探そうとおもえばいくらでも見つかる。
二十代後半、わたしはぐだぐだとひたすらまぎれを探していた。風呂なしアパートに住み、古本ばかり読んでいた。どうせ今は書く場所がないと。だから食いつなぐしかないと。
毎日食いつなぐことばかり考えていると、先のことが考えられなくなる。いろいろ忠告されても「それができれば苦労しない」とふてくされていた。
酒の席でもよく失敗した。かならず余計なことをいってしまう。
つい最近も。ああ、おもいだしたくない。
科学や技術の世界に「不可能を可能にする。そして可能なことを当たり前のことにする」というような言葉がある。
仕事もそうかもしれない。できないときは、どうすればできるようになるのかわからない。次に十回に一回、五回に一回できるようになっても、どうすれば持続させられるかわからない。安定し、持続させられるようになって、ようやくその先のことを考えられるようになる。
田舎にいた高校生くらいのころは、文章でメシを食うなんて不可能だとおもっていた。上京して、原稿を書いてお金がもらえるようになっても、ずっと食えたり食えなかったりの不安定な生活が続いた。
三十代になって連載の仕事をするようになった。そうすると、毎週あるいは毎月のしめきり日に原稿を仕上げるために、何をしなければいかないのかを考える必要にせまられる。日頃から「次は何を書こうか」と考える癖が身につく。書く前は飲まないとか、睡眠をしっかりとるとか、体調のことも気にするようにもなる。そうしないとからだがもたない。
それでもなかなか食えることが「当たり前」にはならない。
それができれば苦労しない。苦労しないとそれはできない。
できるようになるまで、当たり前になるまで、どうしても時間がかかる。
……これからちょっと正念場です。