2008/09/17

続・精神の緊張度

 まとまらないかもしれないが、もうすこし、「精神の緊張度」について考えてみたい。
 おそらくそれは単に「気力の充実」というようなことではない。深刻な内容であればよいとわけでもない。

 この連休中、坂口安吾の「不良少年とキリスト」を読み返した。「精神の緊張度」という言葉を考えはじめたとき、まっさきに安吾のことがおもいうかんだからだ。やぶれかぶれなところもふくめて、これほど「精神の緊張度」が高いとおもえる文章を書く作家はそうはいない。

《文学とは生きることだよ。見ることではないのだ。生きるということは必ずしも行うということでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉じこもっていてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚ずつはぎとって行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌いだすのでなければダメだ》(「教祖の文学」/『教祖の文学/不良少年とキリスト』講談社文芸文庫)

 わたしが「精神の緊張度」という言葉から連想したのは、そういう覚悟の有無である。
 もちろんそんなことをいえば、すべて自分にはねかえってくるわけだ。
 文章を書くことが生活の手段になる。いつしか生活の持続が目的になり、そつなくこなすことばかり考えてしまうようになる。

《小説なんて、たかが商品であるし、オモチャであるし、そして又、夢を書くことなんだ。第二の人生というようなものだ。有るものを書くのじゃなくて、無いもの、今ある限界を踏みこし、小説はいつも背のびをし、駆けだし、そして跳びあがる。だから墜落もするし、尻もちもつくのだ》(同前)

 こうした文学の姿勢を持続させるためには強靱な肉体と精神を必要とする。強靱な肉体と精神をもってしても、限界をふみこえようとすれば、身の破滅が待っている。
 生活の持続を考えながら、限界を踏みこそうとするのは矛盾している。どうしようもない矛盾だ。そうした矛盾の中で「精神の緊張度」の高いものを書いていけるのかどうか。

(……続く)