さすがに月末になってこのままでは仕事に支障をきたしそうになってきた。でもここで休んでしまうと文学熱が冷めてしまいそうなのでもうすこし続ける。
福田恆存が座談会で「精神の緊張度」という言葉をいったのは一九四九年の末、三十七歳のときだった。当時、中村光夫は三十八歳、丹羽文雄は四十五歳、井上友一郎、四十歳……。
福田恆存も中村光夫も、今のわたしと同じ齢くらいだったとは。
文学の理想、理想の文学。そういうものが語られていた時代というものが、なかなかつかめない。ただわたしはその時代の作家を好きになってしまう傾向がある。
「精神の緊張度」という言葉は、福田恆存ひとりの中から出てきたものではないことは、なんとなくわかる。当時の文学者たちがいだいていた共通の理念のようなものがその背後にあるのではないか。
自分が文学にのめりこんで古本屋通いをするようになったのは、古本のほうが単に新刊で買うより安いからというのではなく、どこか今の時代にはない、文学の魅力があったからだ。
『小林秀雄対話集』(講談社文芸文庫)に所収の小林秀雄、中村光夫、福田恆存の鼎談「文学と人生」(「新潮」一九六三年八月号)を読んだ。文春文庫の『文学と人生について』にもはいっていて、十年くらい前にも読んでいるのだが、今回読んでまたいろいろ気づかされることがあった。いや、さらに混乱してきた。
《中村 小林さん、いろいろ文章を見ていて、文学者に一番大切なことというか、本質的なことって何だと思いますか。
小林 トーンをこしらえることじゃないかなあ。
中村 そうだね。
小林 あんなおもしろいものはないんじゃないか。僕らが何ももういうことはないなと思う時は、それが聞えている。いろいろなものを見たり、考えたりしているうちに要求が贅沢になるでしょう。だからたしかにあの人のトーンだというものがあるやつとないやつと見わけがつくようになるわけだね。それを見つけることだよ。トーンがあるやつの安心がこちらに伝わるのだな。
福田 作者が安心してなきゃ、読者を楽しませたり、堪能させたりすることはできませんね。でも今までの日本の文学者はそういうものに反逆しているところがあるんじゃないですか。
小林 このごろでしょう。
福田 ええ、このごろ。そういうのは文学の本道ではないというふうに思っているところがあるんじゃないかなあ》
こんどは「トーン」か。「精神の緊張度」と「安心」は両立するのか。でも「批評家と作家の溝」の座談会のときの「これはどんな題材にぶつかっても生涯一つだ」というときの「一つ」というのは、小林秀雄のいうところの「トーン」のことをいっているのかもしれない。
「文学と人生」の鼎談では、小林秀雄の「トーン」について、中村光夫と福田恆存がふたりで語りあうところもある。
《福田 それこそ自分の天分というものがあって、いくらどういうふうに書いたって自分のトーンしか出ないんだけれど、勘違いしちゃっている。
中村 トーンというのは限界と同じようなもので、自然に出るものだ。出そうとしてはいけないものじゃないですか。
福田 そりゃそうです。しかし私小説が惰性的になっていくと、それはもう自分のトーンではなくて、私小説のトーンというものになっていくだろう。その中で少数の人たちがちゃんと自分のものを出している。たとえば、志賀さんだってそうだし、葛西善蔵だってそうだ。一人の作家でもはじめのうちと終りでは違うし、私小説の場合には同じ作家でも終りになってくるとトーンが次第に安易になってくる要素があることはある。一般論としてそこに私小説の危険があるのだと思う。
中村 さっき小林さん、リアリティにぶつからないと、リアルなのでないと、信じないというのが日本人だということでしたね。それは何かものにぶつかるということでないかと思うんだけれど、精神がものにぶつかる、ものにぶつかった精神しか信用しないような習慣がわれわれにある。
小林 論理学が不得手なんだね。科学が不得手なんだ。
中村 そのトーンだって、本当にものにぶつかったトーンでなくちゃいけないわけでしょう。
小林 まあそうだね》
「精神の緊張度」と「トーン」は関係あるのかないのか。
それよりなぜ今わたしはこのテーマにこだわっているのか。
雑誌の休刊のニュースがいろいろあって、今後の出版界への不安というのもかんじている。情報はインターネットで手にはいる。雑誌が売れない。今後ますますそうなってゆくだろうと。
とすれば、情報以外の付加価値をどうやって作っていくかが問われてくる。
たとえば、バックナンバーを保存したくなる雑誌とか。
古本好きの感覚でいえば、本にしても雑誌にしても古くならない部分というのがある。
その古くならない部分をつきつめていくと、「精神の緊張度」のようなものがあるのではないかとおもうわけである。
……というわけで、これから仕事します。