……例年、八月下旬くらいから秋の花粉症になるのだけど、昨日から鼻がむずむずする。目もかゆい。
先週末に静岡に行ったときに、急にくしゃみが出るようになって、「ひょっとしたら」とおもったら、やっぱりそうだった。
昨年のブログを見たら、八月九日に「例年よりすこし早い秋花粉」とある。
それでも昔と比べたら、ずいぶん楽になった。原因がわからなかったころは、一ヶ月以上、ずっと調子がわるかった。今は漢方(小青龍湯)で症状を抑えている。
コクテイル、ペリカン時代をハシゴして、深夜から朝にかけて、冲方丁著『もらい泣き』(集英社)を読む。
『小説すばる』で連載していたとき、いつも真っ先に読んでいた。本好きの知人にも「今、いちばん面白い連載だ」と吹聴しまくり、単行本になるのを待ちわびていた。
人から聞いた「いい話」や「とっておきの話」を元にしたコラム集で、おそらくニュージャーナリズムの手法で書かれている。
「ボブ・グリーンみたいな」と説明したくなるけど、もうすこし繊細かもしれない。「世の中、きれいごとではやっていけない」といっても、「じゃあ、どうするの?」の先はなく、ひねくれるか、斜にかまえるか、揚げ足をとるかばっかりで気が滅入る。
だからこそ「世の中、捨てたもんじゃないよ」といい続ける人が必要になる。
『もらい泣き』を読んでいると、その役目を作者がものすごく迷いながら引き受けたかんじが伝わってくる。
とくにある日を境に連載のトーンが変わった。でも「世の中、捨てたもんじゃないよ」の部分は一貫している。
《このコラムの雑誌連載中に、東日本大震災が起こった。
福島県に住居を兼ねた仕事場がある私は、もろにその影響を受けた。生活の面でも、執筆の面でも》(二〇一一年三月十一日について)
「ノブレス・オブリージュ」、「インドと豆腐」、「盟友トルコ」、「空へ」、「地球生まれのあなたへ」など、震災後に書かれたコラムは、抑えた筆致ながら、ある種の「祈り」がこめられているとおもった。
その「祈り」は、怒りや悲しみから自分を立て直すための言葉といってもいい。
この先、何度も読み返す本になるだろう。