尾崎一雄著『随想集 苺酒』(新潮社)に所収の追悼文をいくつか読み返した。
ひとつは「中野重治追想」。中野重治は一九七九年八月二十四日亡くなっている。
尾崎一雄と中野重治は親交が深かった。『筑摩現代文學体系』の尾崎一雄の巻の月報に中野重治が寄稿している。
中野重治は尾崎一雄の家を訪ね、「話」の「御馳走」になったと書いた。つまり、古本の話で盛り上がったわけだ。
また戦後、病気中の尾崎一雄を上林曉と中野重治がいっしょに見舞いに行ったこともある。
《中野君はもともと詩人だが、同時に小説家でもあり、批評家でもあつた。その態度は、私などと違って、きびしく、鋭かつた。ちよつと類の無い厳しい鋭さだつた》
中野重治は、同時代の作家では井伏鱒二、上林曉に好意を寄せていたが、「私も全く同様だった」と尾崎一雄は綴っている。さらに、ふたりは好きではない作家も重なっている。
もうひとつ「戦友上林曉」を読む。『すばる』の一九八〇年十一月号に掲載された。
上林曉が亡くなったのは一九八〇年十月六日。
この文章の中でも尾崎一雄が療養中に、中野重治と上林曉が見舞いに来たときのことを綴っている。
そのさい、上林曉は中野重治のことをこんなふうに評していた。
《中野さんが政治に引きずられてるのは惜しいなア。政治運動と絶縁して、文學一本槍になつてくれたら、ぼくら、嬉しいんだけどなア》
上林曉にそういわれた中野重晴は困った顔をしていたらしい。
「戦友上林曉」を読んだときに、山口瞳が向田邦子の追悼で「戦友」という言葉をつかっていたことをおもいだした。
向田邦子が亡くなったのは一九八一年八月二十二日。「戦友上林曉」のほうが先に書かれた。尾崎一雄と上林曉が好きだった山口瞳は「戦友上林曉」を読んだにちがいない。
リアルタイムで読んでいた人は「気づいた人」もけっこういたのではないか。また山口瞳は「気づく人」を意識して書いたのではないか。
わたしは時系列があやふやなまま本を読むことが多い。いつ書かれた文章なのか——もうすこし気をつけて読みたい。